(22)

 

 

「く、寛木君!」

「……今日、どうだった」

 

 振り返ると、そこにはどこか気まずげに視線を逸らしながらその場に立つ、寛木君の姿があった。その手には、何か紙袋が握られている。持ち手の部分は力を入れすぎたせいか、グシャグシャだ。

 

「あ、あ、あのさ。あの、」

 

 さっきまで「見放された」と思っていた相手が、目の前に立っている。どうやら俺は、まだ寛木君に見放されていなかった。そう思った瞬間、なんだか先ほどまでの不安が一気になくなった気がした。

 

「きょ、きょう……おきゃく、さん、から」

「うん」

 

 目の前が揺らぐ。声も情けないほど裏返っている。

 何やってるんだ。寛木君の顔を見た途端、ホッとして泣きそうになるなんて。でも、今は泣けない。だって、寛木君に言いたい事がたくさんあるのだから。

 俺はとっさに左目の目尻にある泣き黒子を手で隠した。

 

——–コレ、隠したら泣かないかなって。

 

 そうだ。俺の涙はこの泣き黒子が連れてくるんだから。隠したら、きっと涙は出ない。

 

「ねだんが、高いって文句、言われて」

「うん」

 

 ゴクリと合間に唾液を呑み下す。ただ、どんなに必死に泣き黒子を隠しても、一向に涙の奔流は引いてくれない。それどころか、鼻の奥もツンとしてくる始末だ。

 やめろ。泣くな、泣くな。泣くな。

 

「たいした、コーヒーでも、ないくせにって、言われて。ねだんに、文句、いわれて」

「うん」

「だから、おれ……おきゃく、さんに。けっ、けいさつ、呼びますって……いっちゃった」

 

 泣くのは我慢できたが、これでは泣きそうなのはバレバレだっただろう。でも、泣かずに最後まで言えた。やっぱり泣き黒子を隠したのが良かったのかもしれない。そう、少しでも泣きたい気持から意識を逸らす為に、バカみたいな事を考え始めた時だった。

 

「そう」

「あ、え?」

 

 俺の左手に何か温かいモノが触れた。そして、

 

「よく言えたじゃん」

 

 いつの間にか、泣き黒子を隠していた左手が、寛木君の温かい手によって目元から離されていた。しかも、なんて事だ。

 

「アンタのコーヒーの価値が分からないなんて、アイツらバカだね」

「……ぁ、ぁ」

「そういう人たちには、他所に行ってもらおう。ここは公民館でもなんでもないんだからさ」

 

 なんと、本当に褒められてしまった。

 「よく言えたじゃん」って言ってもらえた。それに、今の言葉だってそう。俺のコーヒーに価値があるって言ってもらえたようなモノだ。なんだよ。いつもは絶対にそんな事言わないくせに。なんで、こんな時に限ってそんな風に言うんだ。

 

 俺の左手を、寛木君の右手がギュッと掴む。

 

「マスターは間違ってないよ。ソレでいい」

 

 寛木君は嘘が苦手だ。最初は騙されたと思っていたけど、今なら分かる。

 

——–今日、ここで飲んだコーヒーが……凄く美味しかったので

——–マスター、実は俺ゲイなんです。あ、あの、気持ち悪いですよね。

 

 寛木君は最初から、ウソなんて吐いてなかった。

 

「で、も。へんな、うわさとか、流されたら……」

「今から新しい常連客を作ればいい。こういう小さな店を守ってくれるのは、店の事を大事に思ってくれるファンだ。爺ちゃんがそうだったんじゃないの?」

「で、も、でも。そんなの、おれには、いない」

 

 ハッキリと力強く口にされる言葉に、先ほどまでの不安が一気に消えていく。でも、なんでだろう。

 

「そういう客を、俺が連れてくる」

 

 もう、無理だ。

 

「っぁ、ぁぁ」

「……また泣かせちゃった」

 

 寛木君の呆れたような声が、頭の上から降ってくる。

 これまでは俺が泣く度に、「俺のせいじゃない!」と子供のように喚いていたくせに、今の彼の声は、どこまでも落ち着いていて「大人」みたいだった。

 

「……これは、俺のせいだね」

「っぁ、っぁ、っぁぁぁ」

 

 あぁ、そうだよ。寛木君のせいだ。いつもみたいにバカにしてくれたら。きっと俺は泣かなかっただろうに。

 俺が俯きながら泣き続けていると、彼の手がギュッと俺の手を握りしめてくれた。まるで、手を繋いでいるようで少し安心する。

 

「アンタが帰れ帰れってウルサイから、俺は客としてきたんだ。ほら、コーヒー出しなよ。俺は……この店の〝客〟なんだから」

 

 客。それは、この金平亭に価値を見出してくれる人の事を言うんだ。そういう客を、寛木君が連れて来てくれるって言った。

 どうやら、さっそく連れて来てくれたらしい。

 

「ってか、俺学校つまんないし、嫌いだから。だから、明日からも普通にここに来るけど……まさか、客の俺に帰れなんて言わないよね」

 

 どこか拗ねたような声で口にされた言葉は、まるで高校生の頃の俺みたいだった。

 

——–なんだ、キリ。また来たのか。

 

 そうか、寛木君は、毎日この店を「選んで」来てくれてたんだ。義務感で来てたんじゃなかった。俺と、同じだった。

 

「言わ、ないよ」

 

 俺は揺らぐ視界の中で必死に顔を上げると、寛木君の目をハッキリと捕らえた。

 

「いつでも……おいで」

「っ!」

 

 口にしたのは、あの頃の俺が一番かけて欲しかった言葉だった。

 

——–まぁ、いつでも好きな時に来ればいい。

 

 そして、実際に俺は爺ちゃんに言ってもらう事が出来た。それが、当時の俺にとって、どれだけ救いになったか。

 

「……言ったな」

「うん」

「本当に、いつでも来るからな。俺は、ほんとに……学校なんて、行く気ねぇから。単位も取り終わってて、内定先も決まってる、だから、ほんとに……」

「うん。いつでもおいで」

 

 寛木君は言った。店を守ってくれるのは、店の事を大切に思ってくれるファンだって。だとしたら、この店にとっての最初のファンは――。

 

——–私、この店好きです。

——–俺、この店の事好きですよ。

 

 田尻さんと、寛木君の二人だったのかもしれない。

 

 

 

 その後、俺は本当に寛木君にアイスコーヒーを出してあげた。なんか、商店街のタルトまで持って来てくれて、何故か俺も一緒に食べた。美味しかった。しかも、妙にコーヒーに合った。今度俺も買ってみよう。

 

「ほら、金」

「いや、いいって。いつも賄いで出してるじゃん!」

「そういう雑などんぶり勘定からも卒業して。今日は客だって言っただろうが。客からは金をとる。ほら!」

 

 そう言って無理やり押し付けられたコーヒー代に、俺はなんとも言えない気持ちになりながら締めた後のレジにお金を仕舞った。すると、どうだ。

 

「あれ?」

 

 今までで一番低い売上を記録していたと思っていた今日の売上が、寛木君の分で最低売上金額を更新せずに済んだ。ただ、どう考えてもお客さんの数はオープン至上最も少ないはずなのに。

 

「なんでだろ?」

 

 そう思った瞬間。俺は当たり前の事実に気付いた。

 

「あ。値上げしたからか……」

 

 そっか。そうなんだ。商売って、そういうモンだ。

 

「明日から、頑張ろう」

 

 俺は未だに真っ赤な赤字を抱える収支を眺めながら、ただ気持ちだけは前を向いていた。