第11話:不良とアイツ

 

 

 午前7時。

 

 俺がいつものように塾を掃除する為、裏口の鍵を開けるようとすると、既に扉は開いていた。中からは人の気配がする。

 

 何だ?

 

 この時間、掃除にくる俺よりも早くこの塾に誰か人が居た事は一度もなかった。

 故に最初は不法侵入かと警戒した俺だったが、そういえば此処は警備会社に加入しているそうなので、おいそれと不法侵入など出来る筈もない。

 だとすると、中に居るのは塾の関係者という事だ。

 

 俺がバイトを始めて、ここで塾の関係者と会うのは初めての経験だ。

 塾の関係者。

 

 違うとはわかっていても、俺は教室の中に入る瞬間、少しだけ“アイツ”が居るのではないかと期待した。

 バイト講師がこんな時間から塾に来る筈がない。

 そう、わかっているのに俺の気持ちは勝手に期待する。

 

 ったく、俺らしくねぇよ。ほんと。

 

 そう俺が自嘲しながら教室の入り口に立つと、入口近くのカウンターに40代くらいの男が一人パソコンに向かってるのが目に入った。

 

 その姿を見た瞬間、俺は理解した。

 あのオッサンがあの腐れ野郎の言っていた“塾長”だろう。

 

 俺は突然現れた“塾長”と思わしき男に柄にもなく戸惑っていた。

 俺はどうすればいいんだ、と。

 挨拶などをするべきなのだろうが、一体何と言えばいいのだ。

 

 俺は何をどうすればいいのか分からずその場で固まってしまった。

 俺はこういうのが一番苦手なのだ。

 年上とか上司とかどんな風に接すればいいのか全然わからない。

 

 コミュニケーション能力なんて俺には無い。

 丁寧に挨拶なんてした事がないかもしれない。

 だからバイトも見事クビになるわけだ。

 

 そう、俺がどうすべきか教室の入り口でモタモタ悩んでいると、今までパソコンに向けられていた塾長の目が、ハタと俺の方へと向けられた。

 俺はダセェ事に心臓が止まるかと思う程ビビってしまった。

 

「おはようございます」

「っお、おはよう、ございます」

 

 向けられた挨拶に対してとっさに出た言葉。

 “おはようございます”

 俺が、おはようございますって…なんか、

 

変だ。

 

 俺は言い慣れない言葉に背筋がざわつくのを感じていると、塾長はニコニコした笑顔で俺の方を見ていた。

 その笑顔は、あの腐れ野郎の笑顔とどこか似ていて、あぁやっぱりコイツはアイツのおっさんなんだな、と思わざるを得なかった。

 

「キミが睦君の紹介してくれた掃除のスタッフの方ですね」

 

 睦。

 それは紛れもなく、あのクソ幼馴染の名前だった。

 やはり、コイツはアイツのおじさんとやらで間違いないようだ。

 

「あ、まぁ。はい」

 

 俺が気まずげに目を逸らしながら答えると、塾長は気にした様子もなく言葉を続けてきた。

 

「いつも掃除大変でしょう。本当にご苦労様です」

「……や、別に。仕事なんで」

 

 あぁクソ。

 マジで気まずい。

 つーか、今日の掃除はコイツが居る中でやんなきゃなんねぇのかよ。

 

 てか、何だ。

 なんでお前はこんなクソ早ぇ時間からここに居るんだよ、マジで帰れよ。

 

 俺は苛立ちにも似た悶々とした胸の中の燻ぶりを感じながら、塾長と目を合わさぬように視線を逸らし続けた。

 だが、お構いなしに送られてくる相手からの視線からは逃れられない。

 あぁ、不快だ。掃除の邪魔だ。

 

「昨日、少し仕事を残して帰ってしまったものでね。今日はその残りをしに早く来たんですよ……掃除の気が散るかもしれませんが、どうかお気になさらず」

「…………い、いえ」

 

 ヤベェ、こいつ何気俺の心読んでいやがる。

 やっぱあの腐れ幼馴染のおっさんだ。

 俺は背中に嫌な汗が流れるのを感じながらゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「と、言うのは口実で、実は今日はあなたに会いに来たのがメインだったりします」

「あ?」

 

 俺に会いに?

 俺は塾長からの思いもよらぬ言葉に、思わず逸らしていた己の視線が塾長をハッキリと捉えてしまった。

 まさか、クビとか言われんじゃねぇよな。

 一瞬にして浮かんできた最悪の事態は、これまでのバイトの経験から言ってもかなり濃厚な線だった。

 いつも、予期せぬタイミングで俺は上司から呼び出され、クビを宣告されてきた。

 

 そう、俺の表情が一瞬強張ったのがわかったのか、塾長は穏やかな笑みを浮かべ俺の方に近寄ってきた。

 

「いつも本当に塾を綺麗にしてくださっているから、どんな方なのか気になってしまったんですよ。それ以外理由はありませんよ」

「そうっすか」

 

 ったく、脅かしやがって。

 一瞬マジでクビかと思っちまったじゃねぇか。

 俺は一気に体の力が抜けるのを感じると、次の瞬間、塾長の口から放たれた言葉に心臓が激しく跳ね上がった。

 

「それに、何故か講師の一人がやけに清掃スタッフの人は良い人だと言っていたので、ね」

「っ!」

「あなたが掃除してくれた場所だからと、いつも彼は生徒達に教室を汚すなと叫んでるんですよ。お陰で生徒は消しゴムのカス一つ落とせません」

「………そうなんですか」

 

 クスクス笑いながら話す塾長の言葉を聞きながら、俺は自然と口元が緩むのを抑えきれなかった。

 

 あぁ、アイツだ。

 そう今この塾長の口から語られたやつこそ、俺と毎日手紙のやりとりをしているアイツに違いなかった。

 多分今も、あのいつもの前から三番目の席には、アイツからの手紙が置いてある事だろう。

 

 あぁ、早く手紙を読みてぇ。

 

 あんな俺の拙い文章で、アイツが元気になれたなどとは露ほどにも思っていないが、早く。

 早くアイツの言葉に触れたい。

 

 俺の気持ちは既に此処にはなく、アイツの手紙が置かれているであろう前から3番目の席へと移っていた。

 

「……あの、すみません。俺もう掃除を」

 

 掃除なんか嘘だ。

 いや、結局やる事にはなるのだが、まずはアイツの手紙を読まなければ。

 俺はソワソワした気持ちで、そう口を開くと塾長は、やはり穏やかな笑顔で「少しだけ待って下さい」と、一旦フロントへと戻っていった。

 

 ったく、めんどくせぇ。

 用がねぇならお前もさっさと仕事しろ。

 俺は若干イライラしながら塾長の行動を眺めていると、塾長は手に何か白い紙を持って、すぐに此方に戻って来た。

 

「これ、彼から預かったものです。渡せば分かると彼は言っていました」

「っ!」

 

 そう言って塾長が俺に手渡してきたものは、いつもより少し大きめの紙に書かれたアイツからの手紙だった。

 俺はすぐに紙を受け取ると、まだ開かずに塾長を睨みつけた。

 上司だとか、雇い主だとか、関係なかった。

 ただ、どうしてこの男が“アイツ”の手紙を持っているのか、そればかりが気になり、何故だか俺は腹が立って仕方が無かった。

 

 そう、なんかムカつくのだ。

 

 そんな俺の気持を察したのだろう。

 塾長は苦笑すると、子供をたしなめるような口調で俺に話しかけてきた。

 

「安心して下さい。勿論、中身は読んでいません。ただ、たまたま昨日彼がそれを書いている所を私が偶然見てしまって。その時、今日私が早くに出勤すると言ったら、彼からこれを貴方に渡しておいて欲しいと言ってきたんです。今日の手紙は少し長いので、誤って他の人に見られたら恥ずかしい、と」

「………へぇ」

 

 あぁ、畜生。

 どんな理由聞かされも、俺の中に燻ぶるイライラは抑えられない。

 長くても、恥ずかしくても、何でも、手紙はあそこに置いておいて欲しい。

 

 アイツの手紙を最初に手に取るのは、絶対に俺が一番でなければ。

 だってこれは俺に宛てた手紙だろ。

 

 そんな俺の苛立ちを知ってか知らずか、塾長は未だに俺を人の良さそうな笑みで見つめてくる。

 

「彼は……」

「あ゛?」

「彼は、最近いつも凄く楽しそうにしています」

「…………」

「きっと、全部、あなたのお陰なんでしょう」

「………んな事、わかんねぇだろ」

 

 もう敬語なんか全くナシだった。

 ただ、俺の知らないアイツの姿を、俺はこの塾長を通してみているような、そんな不思議な感覚になった。

 

 どうせ頑張んなっつっても、アイツは頑張ってんだろうな、とか。

 ガキ共の為に笑いながら、楽しそうに授業やってんだろうな、とか。

 一人であの席に座って手紙を書いているんだろうな、とか。

 

 俺と塾長しか居ない塾の中。

 しかし、そこには確かに大勢の生徒が居て、アイツの姿があった。

 見えない筈の世界を垣間見た気がした。

 

「彼はあなたの事を凄い人だと言っていました。尊敬していると」

「俺は、そんな人間じゃねぇ……です。何でも中途半端で……何も上手くいった事がない」

「そんな事はありません。あなたは、いつもこの教室を綺麗にしてくれています。それこそ完璧に、毎日欠かさず」

「……たかが掃除だ」

「されど掃除ですよ」

 

 塾長は俺の言葉に間髪を入れずに答えると、笑顔は浮かべたまま、だがしっかりとした目で俺を見据えていた。

 

「小さな事をやり遂げられない人に大きな事を成す力はありません。ですが……」

「…………」

「小さな事をやり遂げる事のできる人と言うのは、必ず大きな事も成す力を持っているものですよ」

「……わけわかんね」

 

 言いながらニコニコ俺に笑いかける塾長に、俺は何だか凄くむず痒い気持ちになるのを感じた。

 こう言うのを「先生」って言うんだろう。

 そう、俺は塾長を前に自然とそんな事を思った。

 

「今はわからなくていいです。でも、キミはもっと自分に自信を持っていい。キミは人に力を与える事のできる人なんだから」

「…………」

「いつも掃除してくださって、ありがとうございます」

「…っ」

 

 ありがとうございます。

 そう言って頭を下げる塾長に、俺は一瞬呆気にとられると。

 

「ど…、どういたし、まして」

 

 いつの間にか俺も頭を下げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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昨日は俺の仕方のない愚痴に付き合ってくれてありがとうございます。

昨日の手紙、本当に嬉しかったです。

最近、頑張っても空回りしたり、結果に繋がらない事ばかりで、少しだけ落ち込んでいました。

 

だけど、昨日のあなたからの手紙で、俺は本当に元気を貰いました。

何の成果も出せない俺の頑張りを、あなたは見てくれている。

俺の事を知ってくれている。

 

そう思う事で、本当に俺は救われました。

あなたが強いと言ってくれる俺なら、俺は俺を信じていけそうです。

 

あなたは本当に凄い。

中途半端じゃない。

あなたは人に力を与えられる。

あなたは優しい人だ。

そんなあなたに俺はいつだって救われている。

 

あなたが俺を知ってくれているように、俺もあなたを知っている。

あなたは凄く向上心に溢れる人で、

仕事には誠実な人で、

そして、少しだけ他人と交わるのが苦手な不器用な人で。

 

塾に来れば、あなたがその日どんな風にここで一人掃除をしていたのかわかります。

毎日、何か小さな事が少しずつ進歩しているから。

俺は、その小さな変化を見る度に、俺も頑張ろうと思えます。

 

あなたは、頑張り過ぎないでと言ったけど、俺は頑張ります。

あなたのお陰で俺は今日も頑張れます。

 

いつも掃除してくれて、ありがとうございます。

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