(29)

 

 

「まだやれる事はいくつも残ってる。むしろ、まだ何もしてないんだからね。アンタはともかく〝やりがい〟を払って。今は動くしかないよ。施策と検証。商売はコレの繰り返しで前に進むしかないから」

「……うん。そうだ、その通りだね」

 

 わかった。

 声は未だに沈んだままだ。泣きそうではない。ただ、辛そうだ。この人のこういう顔は、あまり見たくない。ミハルちゃんではないが、俺だってマスターのこういう顔は飽きる程に見てきた。

 

「いつでも来ていいって言ったの、あれウソ?」

「へ?」

「言ったじゃん。マスター、俺に……学校嫌いだって言ったら『いつでもおいで』って。あれ、ウソ?」

「っ!」

 

 マスターの伏し目がちだった目が大きく見開かれる。そんなマスターに、俺は一歩だけ距離を詰めると、大きく息を吸い込んだ。この店は本当にどこもかしこもコーヒーの匂いで溢れている。でも、この人の近くが一番匂いが濃い。

 

 あぁ、この人は本当に良い匂いだ。

 

「俺、こんなんだからさぁ。多分就職しても周りと上手くやれる気がしないんだよね」

「な、なんで?」

「……ゲイだし。それに俺、イヤな奴じゃん」

「そんな事ないよ!寛木君は良い子だ!」

「っは、そりゃどうも」

 

 本気で言ってくれてるのが分かるからこそ、皮肉っぽい言い方でしか返事が出来ないのがもどかしい。どうでも良いヤツには、それこそ愛想笑いの一つや二つ楽勝だったのに。今は全く表情筋が仕事をする気配がない。

 

「まぁ、こういっちゃなんだけど、多分ミハルちゃんの方も、高校出たら苦労すると思うよ。ダンスがどんな世界かは知らないけど、あの子も多分色々とやっかいな性格してるからね」

「……」

「なんで、マスターがそんな顔すんのさ」

「だって、二人共凄く良い子なのに」

 

 本当にどこまでお人好しになれば気が済むのか。俺達なんて、たかだか店のバイトに過ぎないのに。

 

「そう思うならさ、この店潰さないでよ」

「え?」

「俺達が辛い時に、いつでも来れるようにしておいてって事」

 

 俺の言葉にマスターの目が大きく見開かれた。

 

「俺達の自由な場所になってよ。マスター。いつでも行ける場所があるって、それだけで救いになるんだからさ」

 

 あの夏。俺が失恋した日。

 俺が無意識のうちに走ってこの場所に来た意味がようやく分かった。もう、ずっと前からこの場所は俺にとって〝自由でいられる場所〟だったんだ。

 

「マスター。俺は、四月までしかここには居れないけど。その後も、ここに来ていいんでしょ?」

「っ!」

 

 マスターの瞳がきらりと光った。涙の薄い膜がマスターの目を覆う。また、泣くのだろうか。そう思った時だ。

 

「ねぇ、寛木君」

 

 マスターが凛とした声で俺の名前を呼んだ。泣きそうな顔なのに、でも、どこか吹っ切れたような目で俺を見つめてくるマスターに、俺は目が離せなかった。可愛い。いや、綺麗だ。

 

「俺のコーヒー、美味しい?」

——–おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 

 いつの日か尋ねられた時と同じ場所で、少しだけ聞き方を変えた問いに、俺はゴクリと唾液を呑み下した。あの日、俺は素直になれないまま「不味くはない」と答えたが、今はどうだろう。

 ここは、皮肉も嫌味も、羞恥心も全部捨てて答えるべきところだ。

 

「す、好きだよ」

 

 思わず口から漏れた言葉は、恥ずかしい程に震えていた。あぁ、ダサい。なんてダサい告白なんだ。

 俺の生まれて初めての告白は、あれだけバカにしていたコーヒーの後ろに隠れて言うのがやっと。そんな俺に、マスターは二、三度目を瞬かせるとジワリと頬を染めて言った。

 

「ありがとう」

 

 その時のマスターの顔は、いつもの泣き黒子が綺麗に隠れるほど、クシャリとした笑顔に彩られていた。

 その顔は、タイプじゃないけど無性に可愛く思えて仕方なかった。