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「忘年会ですか、わーい!やるやるー!」
結局、忘年会については、ミハルちゃんから二つ返事でオッケーをもらう事が出来た。無邪気に「わーい、忘年会だー!」と嬉しそうに飛び跳ねる彼女に、ほんの少し残念な気持ちになった事は、大袈裟かもしれないが墓場まで持っていこうと心から誓った。
「あの、寛木君。明日は、お酒はナシね」
「……分かってるし」
その時、チラリと見た寛木君も少しばかり残念そうに見えたのは、完全に俺の目の錯覚に違いない。こういう自分に都合よく物事をみる癖は、早めに直したい。だって、正直期待するだけ後からガッカリするのは自分なのだから。
まぁ、それは来年の抱負にでもしよう。
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そして、忘年会の日。
忘年会といっても、いつものように俺の淹れたコーヒーで軽食を食べるだけの日だったが、それはそれで十分楽しかった。
寛木君と二人がいいなんて微かに思っていたあの気持ちが欠片も無くなるくらいには、盛り上がった。三人でこんな風に過ごすのは久しぶりで、むしろ良かったと思えるくらいだった。
本当に良い仕事納めだった。
「はーー、楽しかったー!三人でゆっくりお喋りするなんて久しぶりー」
「そだね。店の閉店時間ズラしてから、ミハルちゃんとはあんまり喋れてなかったからねぇ」
「そうですよー!いっつも私だけ先に帰れ帰れって!今日だって、ほんとはゆうが君に気を遣って不参加にしようと思ったけど、でもやっぱり私もサミシーから参加したかったの!」
「……はい、黙れー?」
盛り上がる二人の隣で、俺は店に鍵をかける。今日で、正真正銘金平亭の仕事納めだ。カチャリと深く締まる鍵音に、俺は静かに息を吐いた。
今日一日、いつも通りお客さんを出迎える事が出来た。同じくどこの会社も最終日の所が多かったせいか、いつもより早い時間に常連のお客さんも来てくれて。
——–マスター、良いお年を。
そう会計の時に言ってもらえた事が、俺にとってどれだけ嬉しかったか。その言葉は、彼らの生活の一部に、店が根付けている証だと思えたから。
本当に、良い一日だった。
「二人共、お正月休みは少し多めにとってるから、しっかり休んでね」
「はーい!」
「ねぇ、思ったんだけどちょっと長すぎじゃない?」
寛木君の少しばかり不満を帯びた声が、鍵を閉める俺の背中に投げかけられる。これは正月休みを告げた時から、ずっと言われていた事だ。
確かに正月休みにしては長い時間を、俺は二人に伝えている。
「まぁ、今回はちょっとね。俺も実家に帰る用があるし」
「……分かってると思うけど、閉めた分だけ売上は下がるからね」
「うん、わかってる。寛木君、心配してくれてありがとね」
俺の言葉に「まぁ、分かってんならいいけど」と、未だに納得のいかなそうな言葉を口にする寛木君に、田尻さんがいつもの調子で軽く入ってきた。
「ゆうが君は、ますたーと会えないのがサミシーんだよねー」
「はぁ!?いや、別にちげーし!売上の心配してるだけだし!」
「そうなんですか?私は二人と会えないの……すごいさみしい」
「……このタイミングで、その素直さ発揮すんのズル過ぎだろ」
「別にズルくないもん。私はホントの事しか言わないもん」
「この無邪気ドSが」
まるで本当の兄妹のように肩をつつき合う二人が、なんだか羨ましく見えた。いや、ミハルちゃんに嫉妬しているとかではない。むしろ二人の仲が良い事が嬉しくて仕方がないのだ。なにせ、この二人は俺の作った金平亭で巡り会ってくれたのだから。
「……」
こういう友達に、終わりはない。
金平亭が無くなっても、遠くに離れても。俺だって、コージーとまた再び会う事があれば、一気に友達に戻れる自信がある。そういうモノだ。
ただ、もう一緒に起業はしないだけの話。
「ねぇ、寛木君」
「なに、どうしたの。マスター」
でも、俺と彼は違う。
恋には終わりがくる。ましてや、俺のような雇い主と従業員という関係性なら尚の事だ。金平亭が無くなったら、全てが終わる。そういう関係だ。
「店の事は、もうあんまり心配いらないから。ゆっくりお正月は休みな。俺が言うのもなんだけど、君は働き過ぎだよ」
「っは。アンタの大丈夫はマジで信用できないんだよ。すぐ調子に乗って勘違いするし。色々考えが甘過ぎ」
「……はは。そうかも」
すぐに調子に乗って勘違いする、という寛木君の言葉と共に、冷たい冷気が鼻の奥を刺した。
——–ナイナイ!マスターだけはあり得ねぇわ!
ヤバイ、寒くて涙が出そうだ。そう、俺はおめでたいヤツだからすぐに勘違いしそうになる。でも、その度に寛木君の言葉が現実に引き戻してくれてきた。
店の事も、この気持ちの事も。全ての夢は「現実」を見るところから始まるのだと教えてくれた。
「でも、大丈夫。俺、ちゃんと全部分かってるから。今度は勘違いしてない」
「え」
俺の言葉に、柔らかかった寛木君の表情が微かに強張った気がした。どうしたのだろう。俺は、今どんな顔をしているのか。自分でも、よく分からない。
「田尻さん、今年はダンスも忙しいのにバイトもいっぱい入ってくれてありがとうね」
「いーえ!もう少しでダンススクールの学費が貯まるので、むしろいっぱいシフト入れてくれて私はありがとーって思ってます!」
「学費は貯まりそう?」
「はい!でも、三月までギリギリ働いてやっと貯まる計算なので、来年もいっぱいシフト入れてください!」
「ん、わかった」
にこーっと機嫌良く笑う彼女が、将来自分の目標と夢である舞台に立てるように心から願う。この子も、最初は少し腹を立てただけで「くたばれ!」と客に食ってかかっていたが、最近ではそういう事もなくなった。三年間という時間が彼女の忍耐力を成長させたのか、それとも単にお客さんの質の問題なのか。
前者だという事にしておきたいところだ。
「じゃ、寛木君。田尻さんの事、駅までよろしくね」
「……それは、別にいいけど」
未だに訝し気な目線を寄越してくる寛木君に、俺は何気なさを装って、今日一番言わなければならない事を言った。
「あ、そうそう。店の鍵。返してもらってもいいかな?」
「は?なんでだよ」
ヒクと、寛木君の強張った表情が更に固くなった。そんな彼に、俺はフッと表情を緩め出来るだけ自然に見えるような笑顔を浮かべてみせる。上手く、出来ているだろうか。
「ちょっと、スペアの鍵を失くしちゃって。早めに鍵を付け替えようと思うから、もう古いのは回収しとこうと思って」
「……失くした?」
「そう、ちょっとうっかりしてて。すぐ作り直してもらう予定だから、新しい鍵が出来たら寛木君にも渡すようにするね。だから」
返して。
そう、俺が差し出した手に、寛木君の視線がジッと向けられる。何故かその視線はせわしなく揺れており、口元も震えていた。
寛木君や田尻さんは本当に良い子だ。ウソが苦手で、不器用で。でも、だからこそ真っすぐで強いのだ。でも、俺は違う。
「新しく作ったら、すぐに寛木君にもあげるから。ね?」
「……わかった」
俺はバカで、とんだ勘違い野郎だけど。俺は〝大人〟だ。
平気で、ウソを吐ける。
「ん、ありがとう」
「……」
掌に乗せられた鍵は、俺が渡した時に付けていたグアテマラのコーヒー豆のキーホルダーがそのまま付いていた。
それをポケットに仕舞い込むと、今度こそ二人に対してしっかりと向き直った。
「今年一年、本当にお世話になりました。店が今日までやってこられたのは、二人のお陰です。お給料、上げてあげられなくてごめんね」
「あ、いや。別に……」
「私も楽しかったから大丈夫ですー!むしろ、私はもう一回お店の改装したいくらいです!」
「いや、さすがに二回も改装はいいかな」
田尻さんの元気な言葉に、俺は苦笑するしかなかった。残暑の厳しい中、店内改装をしたアレが、どうやら田尻さんの中では一番楽しい思い出だったようだ。確かに、あの時の田尻さんは俺達の中で誰よりも張り切っていた。俺と寛木君なんて、暑くて何度休憩を挟んだかもわからないというのに。
「ねぇ?寛木君?」
「あ、まぁ……うん」
俺からの問いかけに、じわりと居心地の悪そうな表情で答える彼に、俺はポケットの中の合鍵をギュッと握りしめた。
「じゃあ、二人共。また来年ね」
「はーい!また来年!」
「……うん」
元気な田尻さんの声に反して、戸惑いを帯びた寛木君の声が聞こえる。どうやら、俺のウソも捨てたもんじゃないらしい。
「二人共、じゃあね」
俺はそれだけ言うと、クルリと二人に背を向けて歩き始めた。手はポケットに突っ込んで、出来るだけ足早に歩く。早くしないと、バイトの時間に間に合わなくなる。いや、うそ。時間にはまだ十分余裕がある。
「っはぁ、っはぁ」
でも、何故かジッとしていられなくて軽く走り出した。口から漏れる息が、口の周りの空気を白く染める。刺すように冷たい冬の空気が、先ほどからツンと俺の鼻の奥を攻撃してくる。
「っはぁ。っは……っぁ」
歪む視界に、せわしなく動かしていた足をピタリと止める。もう、俺の視界は分厚く張った水分のせいで、今や何もまともに映し出してはくれなかった。ポケットに突っ込んだ手は、先ほど寛木君から返してもらった金平亭の鍵を、ギュッと握り締めている。
「……あーぁ。終わったぁ」
十二月二十九日。
俺の夢を詰め込んだ自由のお城、喫茶金平亭は、その日、二年と九カ月の営業に幕を下ろした。