(38) 1月:くつろぎ君の本音

 

 飲食店の閉店率が一体どれほどかご存知だろうか。

 

 一年目で約三割。二年目になると半分の五割。そして、三年目では七割もの飲食店が、閉店を余儀なくされる。

 

「な、んだよ。これ」

 

——–

閉店のお知らせ

 

誠に勝手ながら、当店は十二月二十九日を持ちまして閉店いたしました。

長らくご愛顧いただき、誠にありがとうございました。

——–

 

 そう、パソコンで作られた簡素なお知らせのチラシが、一枚だけ店の入り口の前に張られていた。

 

 別に驚く事はない。

 喫茶【金平亭】も、その七割の中に入ってしまった。

 

 ただそれだけの事だ。

 

 

◇◆◇

 

 年末年始はゆっくり休めと言われた。

 でも、正直何の予定もない俺からすると、バイトの無い日々はただただ苦痛だった。

 

「っはぁ、なんだよ。アレ」

 

 いや、暇だから苦痛なワケではない。気になる事があるのだ。

 

——–大丈夫。俺、ちゃんと全部分かってるから。今度は勘違いしてない。

 

 あの時のマスターの顔が忘れられない。

 初めて見るそれは、揺るぎようのないほど完璧な笑顔で彩られていた。それが、逆に彼らしくなかった。

 

「勘違いしてないって……何をだよ」

 

 自室で頭を抱え、何度そう呟いただろう。店の事か、それとも――。

 

「俺の、こと?」

 

 マスターはノンケだ。

 でも、あの人にとっては男だとか女だとかは、あまり関係なさそうだった。どうやら、昔から学校に馴染めていなかったり、勢いのまま祖父の店を継いだりするあたり、思考回路が〝普通〟とは少しズレている。

 

——–自分だけの自由なお城が欲しくて、この店やろうと思ったんだ。

 

 その言葉に、俺は思った。アンタはもう十分〝自由〟だよ、と。

 最初に俺がゲイだって伝えた時も、俺がわざと思わせぶりな行動をした時も。あの人はどこまでも、世間の感覚に染まらない自分の中の基準だけで物事を判断していた。

 

——–人に好きになってもらえて、嬉しくないなんて事ないよ。

 

 いつだったか、そう言って笑ったマスターの言葉が妙に頭に残って仕方がない。当たり前みたいな顔で言うけど、それってけっこうスゴイ事だと俺は思ったからだ。

 

『なぁ、知ってる?寛木って男が好きらしいぜ』

『は?マジ無理なんだけど。男とかぜってーありえねぇし!』

『今までも変な目で見られてたって事かよ。マジでキモいわ』

 

 ふざけんな。

 別にゲイだからって、男なら誰でも好きになるワケじゃない。そんなのノンケだって同じだろう。異性だからって誰彼構わず好きになるなんて思われていたら、正直腹が立つだろう。まるで人間として見られていないような、そんな軽んじられているような気分になるんじゃないのか。

 

 でも、同性愛者は存外にそう思われている気がする。

 同性からはケダモノでも見るような目を向けられる。それで、俺は一度中学を転校する羽目になった。

 だから、バレた時点で終わり。元居たコミュニティからは容赦なく追い出される。人生終了。中学の頃は、それをハッキリ学んだ。

 

『もう、お願いだから今度は失敗しないでちょうだいね』

『まったく、お前はどうしてそんな風になったんだ。他の親戚にバレたらなんて言われるか』

 

 親からもそんな事を言われた。俺は家でも学校でもともかく異端だった。でも、失敗作みたいに扱われるのが本当に許せなかった。

 

 だから、俺は失敗しないように。もう自分の事を誰も軽んじたり出来ないように。

 必死に自分を守って生きてきたのに。でも、そういう毎日は酷く鬱屈としていて、物足りなく、そして何より〝不自由〟だった。

 

 そんな時だ。あの店に出会ったのは。

 

『……良い、匂いだ』

 

 正直に言おう。

 最初から、俺はあの人のコーヒーの香りに誘われてしまっていたのだ。

 

 

◇◆◇

 

 

 マスターが俺の事を好きだという事は、なんとなく分かっていた。これは、イタイ勘違いでも何でもなく、確信に近い。なにせ、あの人は俺と違って様々な事に対して感情がダダ漏れだからだ。

 

 俺が「マスター」と呼ぶ度に、一体自分がどんな顔をしているか、きっとあの人は気付いていない。あの人は泣き虫の自覚はあるようだが、なんの事はない。よく泣くし、よく笑う。あの人は、自分の感情にすこぶる自由だ。

 それは、きっと彼を自由でいられるように育ててくれた大人が近くに居たからだろう。

 

 そんなマスターに反して、俺はといえば、とことん自分の感情に不自由だった。素直になるのは怖い。失敗するのが怖い。失敗したら、生きていける場所が足元から崩れるような、そんな過度な不安と常に隣り合わせで。

 

 タイプじゃない。タイプじゃない。

 

——–俺は別にマスターなんか好きじゃねぇし。つか、タイプから全外れだし。ありえねぇんだけど。

 

 最初に何気なく放った言葉が、マスターの気持ちと行動を縛る。そして、それを分かっていても俺は素直にはなれなかった。

 あの言葉は、なにより俺自身を縛っていた。

 

 だって、今度は絶対に失敗したくなかった。だから、出来るだけ慎重に動かないと。

 でも、大丈夫だ。まだ、あと三カ月はある。俺が就職するまで。それまでの間に、勇気を出せば。そして、素直になれたら、その時はきっと。

 そう思っていたのに――。

 

 

 

「……なんで、返事しねぇんだよ」