年が明けても一向にシフトの連絡を入れてこないマスターに、何度か連絡を入れてみた。
でも、返事が来ない。
ミハルちゃんからも「ゆうがくーん、マスターからシフトの連絡きたー?私のとこ全然こないよー」と連絡が入り、俺は更に嫌な予感が募るのを止められなかった。そして、再び連絡をする。殆どした事がなかったが、電話もかけてみた。
でも、反応は何もない。
あの人が、俺からの連絡を無視するなんて事は、これまでに一度もなかったのに。だって、あの人は俺の事が好きだから。連絡したら、本当にすぐに返事をくれていた。
≪シフト、ミハルちゃんも気にしてるけど≫
≪返事くらいしろよ≫
≪いい加減にしろよ。シフト分かんないと、コッチも困るんだよ≫
≪なぁ、なんかあった?≫
連絡が来ない相手に、短時間でここまで重ねて連絡を入れた事はなかった。そういうのはウザイメンヘラ女のやる事だと思っていたし、一番ウザくてダルい事だと思っていたから。
でも、その時の自分はどうだ。バカにしていたメンヘラ女達とまるで同じような状態になっていた。スマホが手から離せず、何度も何度もメッセージを送ってしまう。
自分でも驚くほどに感情が制御できない。
まぁ、年末年始だし。マスターも実家に帰るとか言っていたので、仕方ないのだ、なんてい自分に言い聞かせても何の気休めにもならない。
そして、そんな中。
いよいよ言い訳の出来ないほどおかしな出来事が起こった。
「は?」
一月の頭。給料日でもないのに、バイト先から給料が振り込まれていた。しかも、一か月分じゃない。三カ月分の給料だ。
「……なんの、金だよ。コレ」
三カ月分の給料なんて。ひと昔前の婚約指輪にかける金額のようだな、なんて完全に現実逃避に走った頭が思う。
でも、分かってる。なんで、三カ月分か。そんなの、言われなくても分かる。
——–寛木君も、田尻さんも三月まででいなくなっちゃうのかぁ。
俺達が、本来店に居るはずだった残り時間。
それが、三カ月だ。
「意味、わかんね」
その瞬間、俺は走っていた。
まだ三が日が明けたばかりとは言え、もう周囲の雰囲気には年末年始の浮かれた様子は見うけられない。日常に戻りつつある商店街を必死に走り抜け、俺は一つ裏の路地まで走る。
それは、去年一年間。何度も何度も通った道だ。この道を通る時、どれだけ俺が浮かれていたか知っているヤツは、きっと俺しか居ない。これは、マスターだって絶対分かってないと思う。
俺が本音で話せるのは、あそこだけだった。
美味しいコーヒーを出してくれる、あそこだけが、俺の自由になれる唯一の場所だったのに。
「ミハルちゃん?」
「……ゆうが君、金平亭無くなっちゃった」
店の前には、既にミハルちゃんが居た。彼女らしからぬ、か細い声が周囲の空気を揺らす。
きっと彼女もずっと不安だったのだろう。なにせ、この子は鈍いように見せかけて、本当はとても聡い子だから。
「金平亭が、無い?」
「かんばんも、無いの。あと、変な紙がはって……あるの」
「え?」
ミハルちゃんの指す方を見る。そこには、金平亭の入口に一枚の簡素な紙が貼ってあった。
「……なんだよ、これ」
「ゆうが君、ここに、金平亭は閉店しましたって書いてあるの。これ、本当?ますたーは何も、言ってなかったよ?らいねんも、しふと、いっぱい入れてくれるっていったよ」
ミハルちゃんが震える声で俺に尋ねてくる。俺が、その答えを持っていない事を知っていてなお、聞かずにいれなかったのだろう。
もう、今にも泣きそうだ。そういえば、この子が泣く姿は初めて見るかもしれない。
「コーヒーの匂いもしないの。中、見たけど何もないの。ねぇ、ゆうが君」
「……なに、ミハルちゃん」
「おっ、お、お店は……おきゃくさんが、きてたら、つ、つぶれないんじゃ、なんじゃないの?」
「……」
「おきゃくさん、まいにち、きてたよ。みんな、ますたーのコーヒー好きって言ってたよ」
ミハルちゃんに商売の事なんて分からないだろう。もちろん、俺だって分からない。やった事ないし。俺がやってたのは、いつも机上の空論。ままごとみたいなモンだ。
それに、あの人は一度も俺に店の収支を見せようとはしなかった。そこだけは、絶対に見せてくれなかった。
「……でも、俺は、間違ってなかったはずだ」
ちゃんと仕入れなどの支出は俺の中である程度計算して客の入りを見ていた。その計算だと、ギリギリまだやれる状態だったはず。まだ、店を締めるには早い。
あの人が俺より先にこの店を諦めきれるとは到底思えなかった。むしろ、引き際を間違って負債を増やすタイプだ。
でも、そうじゃないなら。俺の計算が間違っていた事になる。
「ゆうが、くん。まずたー、どご行ったの」
「……知らねぇよ。そんなの……おれが、いちばん知りたい」
「おがねだげ、ほじいわけ、じゃなかったの。わだじ、まだ、ごごでっ、はだらぎだがったのにぃっ!」
正月休みの終盤。
裏路地とは言え、周囲に誰もいないワケではない。
「っひぅぅぅっ!」
ミハルちゃんの泣き声に、周囲の通行人から不躾な視線が向けられる。でも、そんな他人の目をミハルちゃんは気にしたりしない。気にしようともしない。
この子も、俺と違って自分に自由だ。
「……ほんとに、何の匂いも、しねぇのな」
いつもなら、離れた場所からでも当たり前のようにフワリと漂ってきていたコーヒーの香り。俺はあの香りが好きだった。別に、俺は特別コーヒーが好きなワケじゃない。でも、好きだった。いや、好きだ。
——–おでの、ごーひー、おいじいぐない?
あの人の、聞き慣れた泣き声が、ミハルちゃんの泣き声の合間を縫って聞こえてきた気がした。鼻水を吸い込みながら、涙をボロボロと零してみっともない顔で俺を見てくる。泣き黒子を濡らす涙は、どこまでもまっすぐで、俺にとっては尊く見えて仕方なかった。
「……おいしいよ。すきだよ。アンタが淹れてくれたの、ぜんぶ」
——–あぁ、良い匂いだ。
そりゃあそうだ。良い匂いに決まってる。だって、コーヒーの匂いは俺の「好きな人」の匂いだったから。
「っぅ、っぁぁ」
その日、俺は初めて知った。
「何もしない」という事が引き起こす「失敗」もあるのだ、と。
「っぁ、ぁぁぁ」
あの人の匂いのしなくなった金平亭の前で、俺は初めて他人の前で大泣きしたのだった。
その数日後。
金平亭に【売物件】の紙が貼られた。