(40) 4月:マスターの勘違い

 

 

 桜の花も完全に散ってしまった四月下旬。

 新緑が輝く木々は微風にそよぎ、歩道脇に植え込まれた花々は色鮮やかに咲き誇る。もし今の時期デスクワークや学生をしていたならば、きっと速攻で眠りに落ちてしまっていただろう。

 しかし、俺にそんな心配はない。なにせ、この俺。青山 霧は――。

 

「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」

 

 全世界にチェーン展開をし、どこに店を構えても客で溢れかえる【コーヒーブルーム】で働くアルバイト店員なのだから。

 

「……えっと。じゃあ、コーヒーで」

「どちらのコーヒーにしましょうか」

「あ、あ。どちらの……?ど、どうしよう」

 

 戸惑う客の姿を前に、俺はメニュー一覧へとサッと目を通した。次いで、ドリンクの前に客の注文したフィナンシェとの相性を考える。

 

「でしたら、こちらの小春ブレンドはどうでしょう。程よい苦みと、まろやかな口当たりがバターの風味とよく合いますので。フィナンシェによく合うと思いますよ」

 

 俺の言葉に、必死にメニューへと目を落としていた客の顔がホッとした表情を浮かべた。そりゃあそうだ。分からないモノを「選べ」と言われても困るだろう。こういうお客さんは珍しくない。

 彼らにとって「コーヒー」は「コーヒー」なのだ。

 

「あっ、じゃあ。それで」

「では、あちらのカウンターの前でお待ちください」

 

 店内は、本日も客で満員御礼だった。

 今日から新しく売り出されるフローズンドリンクの効果もあって、いつも以上に若い客で溢れかえっている。ただ、そこはやはりコーヒーショップ。店内は、コーヒーの香りが立ち込め、すぐ横では新しく仕入れた豆で淹れられたコーヒーの香りがフワリと香ってくる。

 

 あぁ、良い匂いだ。

 おかげで、忙しいのにどこか落ち着く。店に来る客も、そして働くスタッフも皆笑顔だ。コーヒー好きにはたまらない最高の職場である。

 

「青山君、交代。休憩、入っていいよ」

「はい」

 

 後ろからかけられた声に、俺は静かに息を吐いた。時計を見れば、十三時を回ったところだ。

 

「っはぁ、もうすぐ五月かぁ」

 

 早い、本当に時が経つのは早い。

 俺が金平亭を手放して、早くも四カ月が経とうとしていた。

 

 

◇◆◇

 

 

「ねぇ。青山君、そろそろコーヒーマスターの試験受けてみない?」

「え?」

 

 休憩室に入った途端、店長からそんな事を言われた。この店の店長は女性だ。多分、歳は俺と同じくらい。

 その店長は、来週から提供される予定の新作コーヒーを試し飲みしながら、「良い酸味ね」と軽く呟いた。

 

「ソレ、薫風ですか?」

「ええ、そうよ。飲んでみる?」

「いいんですか!」

 

 頷く店長の横顔に、俺は微かに香ってくるコーヒーの香りをスッと静かに吸い込んだ。うん、来週から五月という事もあり、爽やかな香りのコーヒーだ。

 

「……良い匂い」

「そうね。華やかで甘味もある。これなら、コーヒーが苦手な人でも飲めそう」

「はい」

 

 マスターの感想に、俺も淹れてもらったコーヒーを一口飲んでみる。

 

「うん、本当に程良いですね。ともかく香りが良い。爽やかだ……俺、これ好きです」

 

 まさに「薫風」という名前にピッタリである。

 

「……少し、紅茶っぽい。アールグレイみたいだ」

「まったく、コーヒーを紅茶に例えないでよ」

「あっ、すみません」

 

 呆れたように店長から口にされた言葉に、とっさに口元を押さえた。

 コーヒーと紅茶は全く別物だ。にもかかわらず、高品質な豆になる程、雑味やえぐみが洗練されて無くなっていくせいで、その味わいは「紅茶のようになる」なんて言われ方をするのはよくある事だ。

 

 そのせいで、その例えを嫌がるバリスタも少なからずいる。そう思うと、雑味やえぐみというのは欠点ではなく、コーヒーに欠かせない構成要素の一つなのだと、改めて実感するのだった。

 

「まぁ、私も同じ事を思ったからお相子ね」

 

 気の強そうなキリっとした目元に、微かに笑みを浮かべる店長は、高い位置で結われた髪を揺らして首を傾げてみせた。

 

「お客さんからすれば、私達の細かいこだわりなんて関係ない。美味しいモノを分かりやすく伝えて、新しい味に出会ってもらえればいい。青山君、五日のコーヒーデーには、貴方がコレをお客さんに配ってくれる?」

「はい、わかりました」

「あなた、伝え方が優しくて分かりやすいから、お客さんからも好評よ。私もそう思う」

 

 予想外なところから繰り出された店長からの褒めに、俺は思わず視線を逸らしてコーヒーに口を付けた。華やかで甘味のある良い香りだ。それに加えて風味の紅茶っぽさも相まって妙に懐かしい気持ちになる。まるで、このコーヒーは――。

 

「……寛木君みたいだ」

「え、なに?」

「いえ、なんでもありません」

 

 懐かしい彼の姿がふと思い浮かんできた。同時に、ジワリと顔が熱くなる。

 

「なになに。そんなに照れなくていいじゃない。本当の事なんだから」

「……うぅ」

「青山君ってすぐ顔に出るから、そういう素直な所がお客さんから好かれる理由かもね」

 

 どうやら、店長は俺が褒められたせいで照れていると勘違いしているらしい。良かった。片思いの相手を思い出して照れていたなんて、正直、学生でもあるまいしバレたら恥ずかしいでは済まない。

 

 というか、学生云々じゃない。俺は今年で二十八歳だ。良い年だ。

 

「……はぁ。もう」

 

 寛木君と会わなくなって、早くも五カ月近く経とうとしているのに、未だにこのザマだ。きっと、寛木君の方は俺の事などすっかり忘れて、社会人として新しい生活を送っている事だろうに。

 あの整った顔立ちだ。今頃、会社の女性社員たちからの視線を一心に奪っているに違いない。そう思うと、なんだか非常に気に食わなかった。いくら彼の恋愛対象が同性であっても、そう思うのは止められない。

 

「いやいや、待って。そうじゃないわ。薫風の話がしたかったんじゃないのよ!」

「あっ、はい」

 

 俺が寛木君の事を思い出して、えぐみと苦みのみを抽出したような気持ちになっていると、店長がコーヒーのグラスをカツンと机に置く音を響かせた。