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「コーヒーマスターの資格よ!青山君、受けるつもりない?」

 

 そして、最初の店長からの問いに戻った。

 コーヒーマスター。それは、年に一回。本部で開催される認定試験だ。コーヒー豆の特徴や、抽出方法などかなり細かい事が問われる試験だと聞いている。

 

「あっ、あーー。でも、俺、ただのバイトですし」

「バイトとか社員とか、こういうのは関係ないのよ」

「でも……まだ入ってちょっとの新人ですし」

「新人かどうかも関係ない。あのねぇ、青山君?私も誰彼構わずこんな事を提案して回るワケじゃないのよ。コーヒーマスターになれば、社員登用も出来るし、何よりお給料も上がる」

 

 真剣な目でジッとこちらを見てくる店長の目に、俺はまた一人の懐かしい女の子を思い出していた。

 

——–ますたー!私、ますたーのコーヒー好きです!

 

 田尻さん。彼女も今頃どうしているだろう。無事にダンススクールに通えているといいのだが。

 

「ちょっと、私の話聞いてる?」

「っは、はい!聞いてます!」

「まったく……バイトも新人も関係なく、私はあなた程の知識と技術のある人をみすみすホールのアルバイトとして置いておきたくないのよ」

「店長……あの」

 

 歩く度にひょこひょこと揺れる店長の後ろ姿に、俺は何度田尻さんを思い出した事だろう。

 

「まぁ、面接の時は、顔に傷ひっさげてきて何かと思ったけどね。あの時はちょっとヤバイのが面接に来たって、裏で皆して驚いてたんだから」

「う゛っ」

 

 そうだった。最初にここの面接を受けに来た時、俺は目元に酷いあざをこさえてやって来たのだ。傷の原因は俺の父親と兄貴。金平亭を畳んで完全に金の当ての無くなった俺は、久々に帰った実家で、二人に土下座して頼んだのだ。

 

『金貸してくださいっっ!!!』

 

 その時に、キレた父親と兄貴から一発ずつ盛大に食らった。そもそも、爺ちゃんの店を買い取って喫茶店をすると言った時から、親戚一同から猛反対を食らっていたのだ。今時、あんな場所で飲食店なんかやって成功するワケない!と。

 

 その反対を押し切って開いた店。ちなみに、その時もほんのちょっと……ちょーっとだけ金を借りていた。いや、仕方ないのだ。予想していたよりも開業資金がかさんでしまって、手持ちの金じゃ足りなくなったのだ。

 

 そんな経緯の中、のこのこと店をたたんで、挙句の果てには金の催促をしに来た俺を、二人が優しく出迎えてくれるワケもない。もちろん、あまりの痛さに実家で号泣したのは、言うまでもない話だ。

 

「顔の傷、だいぶ薄くなってきたわね。良かったじゃない」

「……ええ、まぁ」

 

 しかも、ボコボコにされた挙句、一人暮らしの家は強制的に引き払われ、持っていたスマホは速攻で解約された。お前にコレは贅沢過ぎる!と。

 

「しかも、今時スマホを持ってなくて、連絡先が実家の固定電話のみっていうのもね。いや、何なのこの子って思ったわよ。そういえば、スマホは買えた?」

「そ、そろそろ買う予定です」

 

 ウソだ。未だに、俺のアルバイト代は、兄と父親に完全に管理されていて、自由に使える金は殆どない。スマホを買えるのはいつになる事やら、である。

 

「買ったら一応電話番号、教えておいてね。何かあった時にかけるのが実家の固定電話っていうのも、なかなか気を遣うから」

「……はい」

 

 そのせいで、店を閉めた後。寛木君や田尻さんとは連絡が取れなくなった。

 

 ……いや、ウソだ。会わせる顔がなさ過ぎて、連絡出来なかった、というのが正しい。

父親と兄貴から借りた金で、二人に三カ月分の給料を振り込んで、それっきり。二人には、本当に悪い事をしてしまった。

 

「で、試験の方はどうする?受けるなら推薦状を出しておくけど」

「……いや、やめておきます」

「なんで?あなたなら絶対に受かると思うのに。何か理由があるの?」

 

 マグカップを片手に、ジと店長がこちらを見つめる。本当にこの人は、髪型といい視線の真っすぐさといい田尻さんそっくりだ。

 

「俺、この店以外で働きたくなくて」

「あぁ、店舗異動がイヤなのね」

 

 コーヒーマスターの資格を取れば、社員登用や給与アップの道が拓ける分、業務の拡大が必須になる。それが、今の俺にはちょっと困るのだ。

 

「店長。俺を高く買ってくれてありがとうございます。俺は、この店以外で働きたくないので……このままで居させてください」

「わかった。でも、気が変わったらいつでも言って。あなたを推薦する準備はいつでも出来てるから」

 

 そう言ってコーヒーを飲み終わった店長は休憩室の椅子から立ち上がると、空のカップを持って俺に向かって小首をかしげてみせた。

 

「引き留めてごめんなさい、青山君。いつもの所、行くんでしょ?」

「あっ、はい」

「カップもらうわ。洗っておくから」

「あ、いや。これは俺が……」

 

 遠慮する俺に「いいのいいの」と軽く笑いながらカップを手に取った彼女は、そのまま颯爽と休憩室を出ていった。

 

「……すごいよなぁ。店長」

 

 彼女の行動にはイチイチ迷いがない。俺がコーヒーマスターの試験を断ったからと言って、しつこくも言ってこない。ただ、しっかりと褒めて手を離す。まったく、彼女ときたら〝ちゃんとした〟大人だ。俺とは大違いである。

 

 それに加え、彼女はコーヒーの知識にも凄まじく精通していた。

 

——–その顔の傷が治るまでは、表には出してあげられないけど。あなた、コーヒーに詳しいみたいだから、バリスタの方やってもらえる?

 

 

「あぁいうマスターが居る店も、格好良いよな」

 

 爺ちゃんしかマスターの見本は無かったけど、あぁいう店の店主もアリかもしれない。まぁ、なれるかはおいておいてだが。

 

「……さて、行くか」

 

 俺は休憩室に漂う薫風ブレンドの残り香を吸い込みながら、椅子から立ち上がった。

 そう、俺はこの店以外で働く気はない。そして、この店の中で上を目指したいワケでもない。

 

「俺は、自分のお城が欲しいんだ」

 

 昼休みの終わりまで、まだあと三十分ある。俺は店の裏口から飛び出すと、エプロンのまま、軽い足取りで走り出した。

 向かうは、商店街の裏通り。そこに、ある一つの売り物件が、誰のモノにもなっていないかをチェックするのが、俺の日課だ。

 

「だって。あれは、俺の店だ」

 

 だから、俺はこの店以外で働く気はない。

 五月を目前にした爽やかな風が、俺の頬を優しく撫でる。まさに、薫風。その風は、どこか彼を思い出した。