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◇◆◇

 

 喫茶【金平亭】

 

 その表札は、今やその建物のどこにも無い。ただ、外装は俺が店を手放した時のまま。いや、むしろ爺ちゃんが店を手放した時のままだ。古いレンガ作りの茶色の壁に、緑色のツタが鬱蒼と茂る。

 俺の作った閉店のチラシは、四月になったら誰かの手によって、いつの間にかはがされていた。誰にはがされたのかは分からない。でも、もうだいぶ紙もボロボロだったし、三カ月も経てばここに喫茶店があった事を知る人は殆ど居なくなるだろうから、俺ももういいかと諦めた。

 

「……寂しいよなぁ」

 

 でも、飲食店なんてそんなモンだ。

 毎日毎日。どこかで新しい店がオープンする。それと同じように、毎日どこかでまた店が閉じられていく。長く生き残れる店は、本当にごく僅かだ。それを、客はイチイチ覚えてくれているワケがない。

 

 なにせ、彼らにとっては喫茶店など、時間潰しの選択肢の一つに過ぎないのだから。

 

「……はぁ。ん?」

 

 と、そんな切ない感情に胸を揺らしていた時だ。

 

「あ、あれ!?」

 

 いつも、店の壁の一角に張ってあった【売物件】の張り紙が消えていた。昨日までは確かにあったハズなのに。

 

「ま、まさか!誰かに買われた!?」

 

 俺は他に張り紙が張ってないか、外壁をくまなく見渡す。しかし、表から見える外壁にはそういった張り紙は何も張られていない。

 

「……うそ」

 

 頬を撫でる風は爽やかなのに、俺の中を通り過ぎる風は妙に冷たい気がした。

 壁に手をついて店内を覗くと、そこにはガランとした店内が明かりも灯もされる事なく存在しているだけだった。

 

 あの時、寛木君やミハルちゃんと一緒に過ごした椅子や机は、もうどこにもない。

 

「どうしよう」

 

 今は無理でも、そのうち金を貯めてもう一回この店を買うのが俺の目標だったのに。だから、昼間はコーヒーショップで働き、夜は引き続き深夜バイトもやっている。親からはちゃんとした会社に就職しろと言われたが、俺には〝ちゃんとした〟の意味が全く理解できなかった。

 

 ちゃんとしたって何だよ。

 俺はいつでも自分なりに〝ちゃんと〟してきたつもりだ。

 

「俺は、金平亭がいい」

 

 爺ちゃんみたいな、あの店長みたいな。あぁいう店主になって、自分のお城にお客さんを招き入れるのが俺にとっての〝ちゃんと〟なのに。

 

「ここは、俺の店なのに……」

 

 そう、俺が歪む視界に呟いた時だった。

 

 

「いや、そこアンタの店じゃねーし」

「へ?」

 

 

 聞き慣れた、どこか懐かしい声が聞こえてきた。ハッとして俺が後ろを振り返ろうとした時、既にその声の気配はすぐ隣まできていた。

 

「この物件は、うちの……〝くつろぎ不動産〟の管理下にあるモノなんで」

 

 そう言って俺の隣の壁に、真新しい「売り物件」と書かれたポスターを貼り付けるスーツの彼は、見慣れた紅茶色の明るいオレンジ色の髪の毛……ではなく、真っ黒になっていた。長かった髪も短く切り揃えられている。

 

「あっ、あ!」

「そして、この物件の担当は俺です。何かある場合はこちらにご連絡ください」

 

 そう、どこか他人行儀な物言いでポスターを張り終えた彼は、ゆったりとした動作で俺へと向き直った。その体には、ピタリとフィットしたスーツが身に纏われており、その首元にある紺色のネクタイが、彼の凛とした印象を一層際立たせていた。

 

 そんな彼の姿に、俺はすっかり見とれてしまい、無意識のうちにゴクリと唾液を呑み下した。

 

「あ、あの……君は」

「ん?ドシタの?マスター?……俺が誰に見えますか?」

 

 マスターなんて懐かしい呼び方で俺を呼んでくれる。

 そう、どこかデジャブを感じる返しをしてくる彼は、なんだか非常にご機嫌な様子だった。ただ、一瞬だけいつもの礼儀正しい喋り方に戻った彼に、俺は思わず素直に答えてしまった。

 

「……寛木 優雅君」

「ぶはっ!アンタマジで素直か!」

 

 最初こそ、あまりの変りように一瞬誰だか分からなかった。しかし、その声と喋り方、そして何故か彼の周囲だけは時間がゆったりと流れているような不思議な空間に、俺は微かに目を細めた。

 

「……なんなんだよ。あんた」

 

 あぁ、寛木君だ。

 俺の目の前に、寛木君が居る。

 

「くつろぎ、くん」

「そうですよ?何度もアンタに連絡を無視されて、貰う義理も何もねぇ金を突然振り込まれた挙句、驚いてここに来てみれば1年間働いてた店は勝手に閉店して、そうこうしてる間に理解も納得も出来ないまま社会に放りだされた……寛木優雅クンですよ」

 

 あまりにも流れるような調子で言葉を紡ぐ寛木君に、驚いて彼を見ていると、彼はそのまま辛そうに顔を歪めながら言った。

 

「……このウソ吐きが」

 

 その、今にも泣きそうな表情に、俺は場違いながらも先程まで感じていた、妙な寂しさが一気に消えて霧散していくのを感じた。寛木君は、あの日の事を、今もこうして怒ってくれている。

 

 彼は、俺を許していない。

 

「だいたい、なんだよ。連絡しても繋がらないし。家に行っても部屋は引き払われてるし……なぁ。なんでだよ」

 

 そう、彼は、俺の事を忘れていなかった。

 

「店が〝買った〟モンだって、なんで言わなかった!?なんで相談しなかった!?負債があるって言ってくれてたら、俺だってもう少し考えようがあった!しかも、なんだよ!あの金!金もねぇ癖に、なんでバイト如きにあんな金振り込むんだ!?俺達はアンタの重荷だったのか!?」

 

 必死な様子で声を張り上げる彼は、ここが外だという事を一切鑑みていないようだった。いくらここが裏路地でも、真昼間の往来である事には間違いない。俺達の脇を通り過ぎていく通行人が、チラチラとこちらを見ながら通り過ぎて行く。

 

 

 それでも寛木君は止まらない。