第14話:平凡とサヨナラ

 

 

 

「本当にキミは頑張ってくれていたのに……こんな事になってしまって本当に申し訳なかったです」

 

 いいえ、塾長。

 塾長が悪いんじゃありません。

 だから謝らないで下さい。

 

 俺はそう言うつもりで口を開いたつもりだった。

 しかし、実際に口から漏れたのは、何の音もない掠れた自分の息だけだった。

 無意味に漏れた自分の吐息に、その瞬間俺はやっと塾長の言葉が頭の中に届くのを感じた。

 

 あれ。

 俺、今、なんて言われた。

 

 俺はついていかない自分の思考に、先程塾長から発せられた言葉をもう一度己の頭の中で反芻させた。

 

『本部の判断で、これ以上キミをここで雇うわけにはいかなくなりました』

 

 あぁ、そうか。

 本部の判断なら仕方ないな。

 

 そっか。

 そっか。

 俺、もう。

 

 此処で働けないんだ。

 

 そう理解した瞬間、俺はザワリと体中の血管がざわめくのを感じた。

 体はこれでもかという程冷え切っていくのに、頭の中は自分では抑えきれない程の熱を帯びてゆく。

 抑えきれない、そう、これは“怒り”だ。

 

 なんで、なんで。何でだよ!?

 なんで俺が此処を辞めなくちゃならないんだ!

 こんなのってない!なんでだよ……。

 

 塾長の言った匿名の保護者からの電話。

 いや、苦情と行っても差し支えのない内容であった事は、控えめな塾長の口からでも、ハッキリ読み取れた。

 

 俺に対する保護者からの苦情。

 それが俺のクビの、明らかな原因だったが、俺にはどうもその内容が納得いかない。

 

 その保護者からの電話はどう考えても保護者とは思えなかったからだ。

 

 なんで匿名の保護者が俺と生徒の会話の内容まで知っている?

 なんで保護者が俺のスタッフルームでの過ごし方を知っている?

 

 ……なぁ、なんでだよ?

 

 そう、苦情の内容は明らかに保護者では知り得ない内容のモノばかりだった。

 そして更におかしかったのは、その苦情の内容の殆どが、あの有岡講師と俺しか知らない内容のものばかりだと言う事だ。

 

 それがもう匿名という言葉の奥に立つ人物の素顔を映しだしていた。

 あぁ、こう言う事だったんですね。

 有岡講師。

 

 俺は最後に吐き捨てた有岡講師のセリフを思い出すと、自然と拳に力が入るのを感じた。

 

 悔しい。

 これがアナタの言う『痛い目』ですか。

 これは……本当に痛いですよ、先生。

 

 電話の差出人はわかった。

 それに、明らかな俺に対する悪意が存在する事も。

 けれど、だからと言って俺にはどうする事もできない。

 

 俺が有岡講師に詰め寄ったところで、相手が知らないと言ってしまえばそれまでの事だ。

 俺が違うと騒いだところで、現場に立たない塾本部からしてみれば疑いの芽のある人間など、雇うメリットはない。

 たかだか大学生の塾講師など、替えはいくらだっているのだから。

 

 頭がいいな、本当に。

 さすがですよ、有岡講師。

 

 でも……でも、何でですか?

 俺はそんなに駄目だったんですか?

 目障りでしたか?

 

 有岡講師に嫌味を言われるようになってから苦手意識は俺の中に微かにはあったものの、有岡講師は尊敬する俺の先輩だったのに。

 

 塾に入ったばかりの頃に、不出来な俺にいろいろと助言や相談に乗ってくれたのも有岡講師だった。

 だから、いつか認めて欲しいと毎日思って頑張っていた。

 有岡講師みたいな先生になれればいいと、ずっと思っていた。

 だが、結局それは無理だったようだ。

 

 俺がどう足掻いても、彼の中で、俺はただの気に食わない講師の一人で終わってしまったようだ。

 

「……すみません、でした。俺のせいで、塾長にまで、迷惑をお掛けしてしまって」

 

 静まり返る教室の空間に耐える事ができなくなり、俺はやっとその言葉を口にする事ができた。

 そう、どんな理由があろうとも、俺はこの塾でトラブルを起こしてしまったのだ。

 そのせいで塾長は本部にまで報告せねばならない事態になってしまった。

 

 きっとトラブルを嫌う本部の事だ。

 塾長が何らかのお叱りを受けたのは明らかだ。

 本当に申し訳ない。

 

「本村先生…」

「……はい」

 

 いつの間にか立ち上がっていた塾長に俺は、静かに返事をした。

 

「謝るのは私の方です。本当にすみませんでした」

「っそんな!謝らないで下さい!本当に悪いのは俺なんですから」

 

 俺は目の前で深々と頭を下げる塾長を前にざわついていた心が冷たくなるのを感じた。

 何故、塾長が謝るんだ。

 俺はあなたからお叱りを受ける立場だろう。

 決して謝罪する相手ではない筈だ。

 なのに、どうして。

 

「私の責任ですよ」

 

 そう言って、下げていた頭を上げた塾長はハッキリと俺を見ていた。

 その静かな目に、俺は何故だかとても泣きたくなった。

 

「違いま「私は知っていますよ。あなたが悪くない事は」

 

 俺の言葉を遮って、そう静かに口を開いた塾長に、俺はただただ驚いた。

 静かな目をした塾長は、やはり俺を見つめるのみだ。

 

 あぁ。

 もしかして、塾長は、全部知っている?

 

「私が早く何かしらの対処法をとっておかねばならなかったんです。これは講師同士の問題と事を楽観視し、解決を先延ばしにした……私の責任……全て私が悪いんです」

「……塾長」

 

 あぁ、この人は知っているんだ。

 俺と彼の講師あるまじき諍いも。

 俺と彼の中にあった溝も。

 全て、塾長は知っていたんだ。

 

 この電話の本当の目的を、真意を。

 だが、わかっていても塾長にすら、これはどうにもできない問題なのだ。

 わかっていても、塾長には塾長の仕事がある、義務がある。

 匿名とは言え、(自称)保護者からの報告をもみ消す事など、できる筈がないのだ。

 

 何もしなかった。

 何もできなかった。

 そう言って俺にむかって頭を下げてくる塾長。

 

 あぁ、本当にすみません塾長。

 面倒ばかりかけてしまって。

 

「……塾長、やっぱり塾長が謝る事ではないですよ」

「しかし」

「……塾長」

「……何でしょうか」

「……半年間、どうもお世話になりました」

「っ!」

 

 俺が深々と頭を下げた時、俺の頭の上から小さな声で「こちらこそ」と呟く塾長の声が耳に入った。

 

 あぁ、俺は本当に初めてのバイト先で色々なものに恵まれた。

 俺は、ここで一人ではなかった。

 良い出会いをたくさんした。

 

 その日、俺、本村洋は半年間お世話になったバイト先を

 

 

 

 

クビになった。