そこから、俺は三日三晩ゲージ内で暴れるくつしたの隣で過ごし、噛みつかれる度に増える青あざに何度も溜息を吐いた。
「……ぁー、きっつ」
「ぐるぅぅっ!」
正直、予想していたより何百倍もキツかった。
吠え癖暴れ癖による寝不足は予想していたが、思いのほか一番堪えたのは噛まれる事だった。
「ガウッ!」
「……っぐ」
手に感じる鈍い痛みに、思わず眉を潜める。
これがまぁ、マジで痛い。そして、噛まれるのが分かっていて手を差し出さねばならない事が、ジワジワと神経を摩耗する。
でも、噛まれる度にくつしたについて分かる事があった。
「くつした、お前。叩かれてた?」
「ぐぅぅ」
俺の手に噛みつく時、くつしたの目はどうにも楽しそうには見えなかった。あれは完全に恐怖経験を回避する為の防御心理からくる行為だ。
「そういや、俺で五人目とか言ってたっけ」
俺の前にどんなテイマーに当たったかは分からないが、その度に教育方針が変わってくつしたも大変だっただろう。人間嫌いになってないだけマシかもしれない。
「ったく。恐怖じゃ、反省は生まれねぇのにな」
「くぅ」
「ひとまず、こっから一年間は俺が相手してやるから。安心しろ」
「……」
俺の言葉に、くつしたの噛んでいた牙がスルリと俺の手から離れた。まるで、俺の言葉が分かっているみたいだ。
「よし、良い子だ!」
「わふっ!」
そうやって、一週間近くが経過したあたりの頃から、くつしたに変化が見られた。
「くつした、ハウス!」
「わふっ!」
自分からハウスに入るようになり、吠えたり暴れたりする事も減った。
「くつした、偉いぞー!」
「わふっ!」
あと、一番ありがたい変化は、俺が手を出しても噛まなくなった事だ。さすがにまだ革製の手袋を外す勇気はないが、顔を挟んで盛大に撫でても問題ないくらいまでには大人しくなった。
「……っふぅ。ヤマは越えたか」
十日目の晩。俺はゲージで大人しく眠るくつしたの隣で、深く息を吐いた。最近は吠えずに朝まで寝てくれる。おかげで、俺もゲージの隣でとはいえ、仮眠を取れるようになった。くつしたの遠吠えのせいで、俺もだいぶ寝不足だったので助かる。
「あー、トイレ」
襲ってくる眠気を微かな尿意が邪魔をする。俺はゲージの中でくつしたが眠っているのを確認すると、その場から立ち上がった。ひとまず、トイレに行ってから寝よう。
そう、思った時だった。
「どこへいくー」
「ん?」
声が、聞こえた。
「は?子供の声?」
いや、こんな真夜中に子供の声がするワケがない。いや、それ以前に俺にご近所さんは居ない。ここは森の中のポツンと一軒家だぞ。冷える背筋に、俺は軽く頭を振った。
「空耳か」
「どこへいくー、どこへいくー」
「……」
おいおいおいおい!なんだ、これ!?
先程よりも、ハッキリ聞こえる。しかも、その声の聞こえる先は――。
「どこへいくー?なんではなれるー?」
「く、くつした?」
先ほどまで床に頭を付けて寝ていたくつしたが、ハッキリと目を開けてこちらを見ていた。
「くつしたーも。そと、に、だせー。いっしょに、つれて、いけー」
「……ぁ、うそ、だろ」
——–この子はグラフラートの森で発見された、大神ホーラントの血を引く血統種と言われている。
あんなの、金持ちを騙す為のバイヤーの口上だとばかり思っていたが。まさか、コイツ。
「本当に……神獣なのか?」
「くつしたー、は、いいこー」
どこまでもハッキリと口にされる人間の言葉に、俺は先ほどまでの尿意が完全に引っ込むのを感じた。
「くつした、あの……俺」
「なんだー。にんげんふぜいがー。くつしたに、なにか、もうすかー」
動物って、コッチの言ってる事を分かってるみたいな反応するよな。わかるわかる。よーく分かる。
そういう所が可愛いんだよな。わかるわかる。うん、めっちゃ分かる!
「あの、ちょっとトイレに」
「といれ、いくなー。くつしたのところ、いろー。にんげんふぜいがー」
いやいやいやいや!コレは完全に分かってるヤツじゃん!
どことなくクールな目つきでこちらに命令をしてくる仔狼に、俺は頭がクラリとするのを感じると―――。
「……トイレ」
ともかく一旦、トイレに行った。
「いくなーーー!!」
可愛らしい叫び声が、狼の遠吠えのように森中に響き渡った。