犬にもその子によって様々な性格がある。人間と同じだ。十人十色。いや、十犬十色か。
『くつした、ほら。ここ、すっごい広いぞ。走ろう?』
『くぅん』
現世で俺が最後に飼った犬。くつした。
俺の前では悠々とした姿を見せる癖に、ドッグランに行くと途端に俺の傍から離れようとしなかった。
『くつした、ほらっ!』
『くぅ』
フリスビーを投げてもジッと俺の方を見上げるばかりで、一歩も動こうとしない。しまいには俺の足に頭をピタリとくっつけて俯く始末。
『くつした……』
ジャーマンシェパードは運動が必須の犬種だ。だから、一日の間に出来るだけ思いっきり走る時間を作ってやりたいのだが。
『くつした、もう帰ろうか?』
『くぅ』
他の犬が居るドッグランではどうしても犬見知りしてしまう。
どうやら、くつしたは犬が苦手らしい。でも、俺も人間なのに人間は苦手なので、くつしたの気持ちは分からないでもない。
俺はくつしたの目の前に膝を付くと、両手でくつしたの顔を挟んでグリグリと撫でてやった。不安そうな、黒い瞳とバチリと目が合う。
『そう、気にするな。くつした。良い子良い子』
『ふぐぅぅ』
ただ、そんな極度の犬見知りも、成犬になるにつれて少しは改善された。ただ、それでも、家にいる時のようにのびのびとした様子は、結局一度もドッグランでは見られなかった。
『くつした。いつか俺が庭付きの広い家を買ってやるから、それまで元気で待っててくれ』
『わんっ!』
そんな、いつになるか分からない俺の夢を、くつしたは嬉しそうな顔で笑って聞いてくれた。
◇◆◇
「くつした!行けっ!」
「わふっ!」
俺は手製のフリスビーを投げると、思いっきり森の中に投げ放った。その瞬間、くつしたが嬉しそうにその後を追う。
「すげぇっ、早いな!くつした!」
この森は、俺の家の庭だ。とは言っても、俺の所有地でも何でもない。しかし、こんな辺鄙な所、基本誰も寄り付かないので、勝手に俺の庭という事にしている。テイマー仲間からは「なんで、あんな辺鄙な森に住むんだよ」と言われるが、そんなの決まっている。
人と関わるのが面倒だからだ。……まぁ、別名を人見知りとも言う。
「っう、わ!」
気が付くと、投げたフリスビーを凄まじい脚力と、跳躍力でひょいと口に咥えるくつしたの姿が視界に映り込んだ。
「おぉぉっ!格好良いぞ、くつした!」
「ふっ、ふっん!」
くつしたが俺の所にやって来て三カ月近くが過ぎた。まるきり仔狼の姿だったくつしたも、少しずつ体つきが成体に近付いていた。神獣が一体どれほどのサイズまで成長するのかは分からないが、今のところ一般的な狼と大差ない成長速度である。
「っふん、っふん!」
「くつした!いいぞ、速いはや……ん?」
ただ、体は一般的な大きさなのだが、くつしたの潜在能力は明らかに通常の狼とはワケが違った。
「っふ!っふ!ふんふんふんっ!」
「ちょっ、くつした!待て!おいおいおいっ……ぐほっ!」
直後、俺の体は後方に勢いよく吹っ飛ばされていた。
「……っぐぅぅ、っう、ぉぉお」
「っはっはっは。取って来た!」
耳元でくつしたの嬉しそうな声が聞こえる。しかし、俺はそれどころではない。
成長したくつしたの体と、通常よりも秀でた脚力によりもたらされたスピード。そして、口に咥えた固いフリスビーが、あばらに容赦なく直撃したせいで、俺は悶え苦しむより他なかった。
「~~っう、ぐぅ」
「くつしたは、格好よく、持ってきたぞ!どうだ!」
あまりの痛みに、言葉なくその場に蹲る俺に対し、くつしたは得意気に尻尾を振りながらペッとフリスビーを目の前に落としてくる。どうやら、痛みに悶え苦しむ俺が、くつしたには喜んでいるように見えるらしい。
そう、そうなんだよ!そういう生き物なんだよ!
「くつしたは、良い子だろ!見ろ!見ろ!」
「っぁ、あぁ……良い、子だ。くつ、した」
「人間ふぜいには、もったいないな!くつしたは!」
どんだけ自己肯定感が高いんだよ、コイツは。未だに少しあやしい人語を操りながら尻尾を振るくつしたに、俺は痛む肋骨を撫でながらもう片方の手でくつしたをゆるゆると撫でてやった。
もう、随分前に手袋は卒業した。
「くつしたは、おやつ、をもらえると思うが?」
「……あいあい。よく、出来ました」
「いいこいいこ、はしないのか?」
ウエストポーチからおやつの干し肉を探していると、くつしたが期待するようにこちらを見ていた。プライドの高そうな物言いで口にされる「いいこいいこ」という言葉に、俺は思わず噴き出す。
「っはは。そうだったな。大切な良い子良い子を忘れてた」
「忘れては、いけないなー」
「ごめんごめん。っよし」
良い子良い子、というのは両手でくつしたの顔を挟み、ジッと目を見つめながら顔を思いっきり撫でてやる行為だ。くつしたはコレが大のお気に入りなのである。
「良い子良い子――!!」
「うーーーーっ!」
きっと普段の俺を知る人間なら、完全に引てしまうだろう。いや、俺を知らない人間が見ても「なにあれ」と二度見してくる勢いに違いない。でも、俺の調教の曲げられない信条として「褒める時は全力で」というモノがある。だから、俺の「褒め」は全身全霊だ。
それに、俺は他人の目なんてどうでも良い。俺にとって大切なのは、いつだって目の前の相手だけだ。
「ほら、おやつだ!」
「はぐっ!」
三カ月も経つと、くつしたが喋る事に対して違和感は一切なくなっていた。それまでの静かな一人暮らしが嘘のように毎日が賑やかだ。
それに、躾けの進捗はとても順調。今はハウスも出来るし、お手やお座り、伏せ、追従など基本的な躾もマスターしている。一日三時間は、森の中を好きなだけ駆け回っているお陰か、筋肉も良い具合に成長してきた。
と、ここまで来たら次にやる事は決まっている。
「なぁ、くつした。ちょっと話があるんだが」
「なんだ。くつしたは、いいこか?」
「……あぁ、良い子だよ」
「どのくらい、いいこか?」
本題に入りたいのに、くつしたの神様的超絶承認欲求が先に進ませてくれない。どうやら、先ほどの「良い子良い子」では足りなかったらしい。
「このくらーい!良い子良い子―――!」
「うーーーー!」
その後、数分間。俺はひたすらにくつしたを「良い子良い子」してやった。全力で、全身全霊で、俺の全体力を使って。それなのに、だ。
「っはぁ、っはぁ……あ?」
「くつしたは、いいこか?」
「っぁ、あぁ。……良い子だ」
「いいこか?」
「……」
ジッとこちらを見てくる期待感を帯びた瞳に、俺は整わない呼吸の中、グッと息を呑んだ。クソ、可愛いな。おい!
「……良い子良い子―――!」
「うーーーー!」
あぁ、神様相手だと、全力で褒めてやるのも死ぬほど体力が要るらしい。
こうして、俺が無事にくつしたに「本題」を話せたのは更に十数分後の事だった。