16:ド底辺鬼の一足遅い自覚!

 

 

 柔らかい小さな手が俺の手を懸命に掴む。

 

「福ちゃん、こちらへ。福ちゃんは、あんよが上手あんよが上手」

「ぁー、ぁー」

 

 俺が大江山から無事に家に戻り、三月が経過した。俺は、祭壇になったお爺さんの前でにこにこと笑う福ちゃんに下手くそな歌を歌ってあげた。

 福ちゃん、というのは「福の神様」の愛称だ。歌を歌う時だけは、語呂が良くないのでバチ当たりかもしれないが福の神様を「福ちゃん」と呼ばせてもらっている。

 

「ぁぁうえ、ぁぁうえ」

「福の神様?」

 

 福ちゃんは俺の腕の中に倒れ込むようにして倒れ込むと、俺の伸びきったヨレヨレの服の中に頭を突っ込んできた。

 どうやら、いつものが始まったらしい。

 

「福の神様、乳を吸われるのですか?」

「ぁ~、ぁ~」

 

 以前のように大きな体ではなくなったせいで、上手く俺の乳まで到達できないらしく、俺の体を小さな拳がトントン叩く。

 

「吸っても何も出ないんだけどなぁ」

「あ゛ーーー!」

「あぁ、ごめんなさい。はい、どうぞどうぞ」

 

 俺は急いで服をたくし上げると、今や当たり前のようにツンと立ち上がる豆のような乳首を福の神様へと差し出した。

 

「っちゅ、ちゅっ」

「く、くすぐったい」

 

 体の大きな頃とは違い、小さな舌が必死にチロチロと乳首を舐めてくる。

 

「……福の神様はどうして赤子になってしまわれたんだろう」

 

 どういうワケか、俺が居ない間に赤子になってしまったらしい福の神様は、今もこうして赤子姿のままだ。ただ、掌サイズ程しかなかった体はようやく、人間の赤子ほどの大きさにまで成長してくれた。おかげで、潰してしまうのではないかという心配は無くなったので一安心だ。

 

「……福の神様、出雲で何かありましたか?」

「ぁぁうえ、ぁぁうえ」

 

 何度目になるともしれぬ質問に、福の神様は「ぁぁうえ」と口癖である不思議な言葉を答えるだけで、意味のある言葉は返してくれない。

 その、あまりの変わり果てた姿にしばしば「これは本当に〝あの〟福の神様なのだろうか?」と疑ってしまいそうな事もあった。

 でも、陶器のような白磁の肌や、埋め込まれた黒曜の瞳はあの頃の福の神様と何ら変わらない。

 

 この方は、やっぱり俺の知ってる福の神様で間違いない。

 

「むちゅ、むちゅ」

「……かわいいなぁ、かわいいなぁ……かわいい、んだけどなぁ」

 

 まるで、つきたての餅のように温かくて柔らかい赤子の福の神様。とても可愛らしくて堪らないのだけれど――何故だろうか。乳を吸う赤子の福の神様の姿に、徐々に首が垂れてしまうのを止められなかった。

 

「福の神様、福の神様」

「ン、ン、ン」

 

 トントンと、腹の上で乳を吸う福の神様の背中を叩く。

 秋の入口に差し掛かったとは言え、まだまだ窓から入り込んでくる日差しはジワリと熱い。しかし、俺の心の中には、冬の隙間風がぴゅうぴゅうと容赦なく吹き込んできているように寒々しかった。

 

「福の神様……七日で、帰ってこられるのではなかったのですか?」

「ぅ?」

 

 赤子の福の神様は、乱暴な言葉など使わない。俺を底辺鬼と罵ってくることも、虐めてくる事もない。

 それは、とてものびのびして楽しい事の筈なのに、何故かとても物足りない。

 俺は腕の中でジッと此方を見上げてくる福の神様に向かって、ずっと腹のナカに抱えていた気持ちが溢れ出るのを止められなかった。

 

「また、一緒に組立人形(フィギュア)で遊びましょう……それに、またお話しだってしたい。それに」

「……」

「夜、抱き締めて眠ってくれないのが……とても寂しい」

 

 伝わっているのかいないのか。きっと伝わっていないのだろう。

 俺が「一体何をやっているんだ」と、大きな目をきょとんとさせて此方を見上げてくる福の神様の頭をよしよしと撫でようとした時だった。

 

「それは、本当か」

 

 突然、それまで赤子特有の意味のない言葉ばかりを口にしていた小さなフワフワの唇から、揺らぎのない声が紡ぎ出された。

 

「え?」

「俺は、元の俺で〝良い子〟だったという事か?可愛いかったという事か?」

「あ、あれ……えっと」

「どうした、早く答えぬか」

 

 なんとも懐かしい詰問口調の話し方に、俺はとっさに、でもハッキリと頷いていた。

 

「はい、福の神様はいっとう可愛い、良い子でした」

「夜、俺が抱き締めて眠らねば寂しいというのは?」

 

 改めて問われて、少しばかり気恥ずかしい気持ちになる。しかし、もう一度口にしてしまった事だ。今更恥ずかしがったとしても仕方がない気がした。

 

「は、い。ほん、とうです」

「そうか……」

 

 腕の中に居る福の神様の放つ赤子の熱とはまた違った熱さが、体中を覆う。すると、そんな俺を他所に赤子の福の神様が、噛み締めるように「そうか」と言いながら、俺の頬にその小さな手を伸ばした。

 

「道理で、漲るはずだ」

 

 次の瞬間、俺の腕の中で乳を吸っていた赤子はみるうちに大きくなり、元の大きな福の神様の姿に戻っていた。

 

「っぇ、ええっ!?」

「そうかそうか!なんだ、俺は最初から愛されていたのではないか!二月も放っておかれたので、捨てられたのかと思ったぞ!母上!」

 

 え、あれ?は、ははうえ?

 福の神様の口を吐いて出た「母上」という言葉に、頭が付いて行かない。しかし、何故だろう。その呼び方は、初耳なようでいて妙にしっくりきた。

 

「あぁ、良かった。母上、母上……ははうえっ!」

——–ぁぁうえ。

 

 大きな体が胸の上で頭を擦り付けてくる。それは、つい先ほどまで赤子の福の神様が俺に対して発していた謎の口癖とハッキリ重なって聞こえた。

 もしかして、あれは――。

 

「ずっと……母上、と呼んで、いたんですか」

「他に何と呼ぶ。お前は俺の母上だろうが」

 

 当たり前だと言わんばかりに返された言葉に、俺はなんとも妙な気分だった。

 ずっと、お婆さんの徳で生まれたと思っていた福の神様だったのに、なんという事だろう。この凄まじい力を持った神様は、どうやら俺が〝産んで〟いたらしい。