17:体験したことしか書けないなら、Web作家はみんな異世界転生してる

 

 九月になった。

 しかし、大学というのは面白いもので、九月に入ってもまだ「夏休み」は続いている。

 

「最近、少し日が落ちるのが早くなってきたねぇ」

「ですねぇ。なんだか、ちょっとだけ夜は涼しくなってきた気がします」

 

 その日も俺は、食器を洗いながらマスターと店じまいをしていた。

 夜のブルーマンデーは、昼間とはまた違った顔を見せる。BGMは止まり、厨房の灯りも落とされ、静かな空間にコーヒーの香りだけがゆっくりと漂っていた。

 妙に切ない情感があって、この時間の店の雰囲気も大好きだ。

 

「そろそろ京明は文化祭の準備が始まる頃じゃないかい?」

「そうなんです!夏休みが明けたら、七曜会それぞれで部誌を作ることになってて……すっごい楽しみです!」

 

 俺がそう言うと、マスターは「そうだったね」と懐かしそうに目を細め、ふっと微笑んだ。

 

「直樹君、それが終わったら店の方はもういいからね」

「えっ、でもまだ掃除が……」

「いいのいいの。あの子、多分上で待ってるから。早く行ってあげて」

 

 二階を仰ぎ見るようなマスターの視線に、胸の奥がふっと熱くなる。

 

「……はい。じゃあ、これだけ終わらせたら行きます」

「うん、そうして」

 

 食器を洗い終えると、俺は棚からリュックを掴んで、足早に店の奥へ向かった。

 

「直樹君」

「あ、はい。なんでしょう?」

 

 ふと、背後からマスターの声がかかる。

 

「あの子の小説、好きになってくれてありがとうね」

 

 あまりに唐突で、ピンとこないお礼だった。俺は思わず首を傾げながら、肩からずり落ちそうなリュックを直しつつ、思ったままを口にした。

 

「余生先生の作品は、俺だけじゃなくてみんな大好きですよ!」

 

 俺はそれだけ応えると、そのまま階段へと足をかけた。古びた木の階段は、どれだけ静かに登ってもギシギシと音を立てる。

 少しだけ息を整え、二階の廊下を進んだ先のふすまの前に立つ。手前から二つ目の部屋。そこが、店じまい後の〝いつもの場所〟だ。

 一拍置いて、トントンとノックした。ふすまをノックするって変な感じ。

 

「余生先生、こんばんは」

「入れば」

 

 短く返ってきた声に、俺はそっとふすまを開けた。

 

「……はぁ」

 

 初めて来たわけでもないのに、思わず感嘆の息が漏れる。

 

 ふすまの向こうに広がっていたのは、六畳ほどの畳敷きの部屋。正面には低いローテーブルがあり、そこにノートパソコンを置いて向かっているのは、少し猫背気味の余生先生。その背中の奥、天井まで届きそうな本棚には、ジャンルも整理も問わない本と資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

 

「なに突っ立ってんの。早く入れば」

「っあ、はい!」

 

 こちらを振り返らずに発されたその声に、俺は慌てて畳の上に一歩足を踏み入れる。そして——。

 

「余生先生!今日の更新分、読みました!」

「そう」

「感想、いいですか!?」

「勝手にどうぞ」

 

 短く返されたその言葉に、俺はすぐさま先生の隣に腰を下ろし、喉の奥に溜め込んでいた【那須与一】への感想を一気にまくし立てた。

 

「与一さん、今日もカッコよすぎません!?〝自分を信じられないなら、矢を信じろ〟って、え、それもう人生じゃん……って。そういうのが、セリフじゃなくて地の文でスッと出てくるの、あまりにもズル過ぎますからね!」

「セリフ暗唱すんな。……ハズいから」

「あ、あっ、なら!あと!今回の戦闘描写なんですけど、凄い緻密で、風の流れとか弓の重みとか、読んでるこっちまで一緒に狙い定めてる気分になって……!一瞬の決断をあんなにスローモーションで描けるの凄いです。なんであんな風に書けるんですか?余生先生は弓を使った事があるんですか!?」

「あるわけないだろ」

 

 先生はいつも通り素っ気なく答えながら、カタカタとキーボードを打ち続けた。けれど、俺が何かを褒めるたびに、微かにタイピングの音が速くなっている。反応が薄い分、最近はそういう小さな変化に気が付けるようになってきた。

 ていうか、聞きながら書けるとか器用過ぎる。はい、天才。

 

「……たった一頁の更新で、よくそこまで感想が言えるよな」

 

 ぼそりとこぼされた声に、俺は間髪入れず、「まだ全然言い足りないです!」と叫んでいた。

 

「あの、まだ言ってもいいですか!?」

「いいけど、また興奮しすぎて鼻血出すなよ」

 

 その瞬間、余生先生がチラと俺に視線をよこし、わずかに口角を上げた。タイピングの手は止まらないどころか、むしろどんどん加速している。

 

「畳の血って取れないから、出すなら事前申告しろ」

「ぅ、ごめんなさい……」

 

 視線を落とせば、畳の上にはポツポツと不自然なシミがいくつか残っている。それを見た途端、全身にじんわりと恥ずかしさがこみ上げてきた。

 これは、俺がこの部屋に初めて上がらせてもらった日、感想を伝えるのに夢中になりすぎて、興奮のあまりうっかりやらかしてしまった〝粗相〟の跡だ。

 

「た、たぶん……今日は、大丈夫、です」

「へぇ」

 

 恥かしさに俯く俺に、余生先生は目だけで笑うように視線を向けてきた。

 

「ってことは今日の更新分はそこまで良くなかったってことか」

「っは!?ち、違う!最高だった……も、ほんと良くて」

「口じゃどうとでも言える。体は正直だな」

「っな!」

 

 こんなの、別に余生先生が本気で言ってないのは分かる。

 だって、先生はふざけてる時、語尾がほんの少し上ずって、ちょっとだけ鼻にかかった声になるから。

 

「ま、最近は日常パート続きでつまんなくなってきたって感想欄でも書かれてるし、無理に褒めなくていい」

「違う、違う違う!ちがうってば!」

 

 それでも悔しいものは悔しい。

 俺は、ちゃんと気持ちを余生先生に伝えきれていないのがもどかし過ぎて、胸の奥がカッと熱くなるのを止められなかった。

 と、思った瞬間、鼻の奥がツンとする。

 

(あ、やば)

 

 直後、嗅ぎ慣れた鉄みたいな匂いが鼻孔を擽り——。

 

「っぁ、も……出ちゃっ」

 

 とっさに畳を汚さないように片手で鼻を覆った時だ。カタカタと鳴っていたキーボードの音が、不意にぴたりと止んだ。

 

「余生先生?」

 

 ん?と顔を上げると、そこには驚いたように目を見開き、まるで息をするのも忘れたかのように俺の顔を凝視している余生先生の姿があった。

 片手で口元を覆いながら、耳の先まで真っ赤になっている。

 

「……っぅ、ぁ」

「え、あの。大丈夫ですか?」

 

 まさか俺の鼻血が移ったのだろうか。

 いや、そもそも鼻血はうつるのか。なんて、俺がバカな事を考えていると、余生先生は長い前髪の隙間から目を細め「サイアク」と小さく零した。

 

「あっ、あの、ごめんなさい!もう、二度と部屋は汚しませんので!あの、ほんと、もう気をつけますのでっ!」

「……ぜひ、そうしてください」

 

 慌ててリュックからティッシュを取り出して叫ぶ俺に、先生は疲れたように肩を落としてパソコンを閉じた。同時にローテーブルの下に脚を引き込むようにして不自然に姿勢を変えると、わずかに咳払いをして口を開く。

 

「なぁ、ノキ先生の昨日の更新分は読んだか?」

「っあ、えと」

 

 肩がビクリと跳ねる。完全に虚を突かれた。

 余生先生はそれに気づくでもなく、俺の返事を待たずに続けた。

 

「……読んだよな。あんなの途中で止められるわけ、ないよな」

 

 一拍、静かに息を整えるような口調だったのに、次の瞬間には言葉が止まらなくなっていた。

 

 ああ、また今日も始まってしまった。

 

「ヤバかった。終盤の〝引き〟。あれ、ズルいって。テンプレに見せかけて、ちゃんと意表を突いた展開に落とし込んでくるなんて。あんなの、誰にでも書けるわけない」

 

 余生先生はさっきまで赤くなっていた顔をすっかり戻して、語るごとに息を吹き返していく。前髪の隙間から見える瞳は、もう、完全に〝読者の目〟だ。

 

「しかもさ、セリフで説明せずに行動でキャラを語らせるんだよな。あれって、実際やろうとすると、マジで怖いんだよ。読者を信じてないとできない」

 

 ぽつぽつと話し始めたはずなのに、途中から明らかにテンションが上がっていく。そんな余生先生の姿に、俺は鼻に詰めていたティッシュを、更にグッと奥まで押し込んだ。

 

「俺なんか、すぐセリフに逃げるから。言葉で全部言わせないと安心できないからさ。……結果、くどいしダサい。ほんと、文章が垢抜けない」

「いや、そんなこと——」

「ある。書いてる俺が、一番わかってる」

 

 無表情のままパソコンに視線を戻しながらも、その声には隠しきれない熱がにじんでいた。余生先生の〝自制心〟は、いつも言葉に追いついていない。

 

「読者を信じて行間に委ねるって、生半可じゃない勇気がいる。でも、あの人はそれを、色んなヤツが見てる投稿サイトでやってるんだ。ほんと、マジで……尊敬する」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが引っかかった。ノキ(俺)は、たぶん〝読者〟なんて、まったく信じてない。

 俺が全てを賭けて信じてるのは、たったひとり。

 

(——余生先生だ)

 

 だから、最近は「分かりにくい」とか「読んで損した」とか言われて感想欄が荒れても、正直どうでもよかった。

 俺にとって、作品を読んでくれる読者は、目の前の彼以外に居ないのだ。

 

「なのに、主人公の気持ちが分かんないとか、気持ち悪いとか、好き勝手言われて。ほんとムカつく」

 

 余生先生は、息を深く吸い込むと、ゆっくりと吐き出しながら眉間に皺を寄せた。