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「おい、何でコイツは起きないんだ」
「…………」
アウトが眠りについて3日が経った。
あれから、俺は仕事にも行かず、ずっとアウトの様子を見ている。見ているが、アウトが目を開けた瞬間は、一時もなかった。
ずっと、ずっと眠り続けている。
それは、もう明らかに異常事態だった。
「なぁ、マスター。なんでだ?」
ベッドに横たわったまま、一切目を開けようとしないアウトの姿を茫然と見下ろすのは、アボードだ。
その後ろには、バイやトウ、そしてアウトの同僚でもあるアバブまで居る。皆、いつものようにアウトに会いに来ていた。
そう、いつものように。
そして、いつもとは全く違うのは、アウトだ。アウトが目覚めない。どんなに声を掛けても、体をゆすっても。
アウトの目が開かれる事はないのだ。
「…………」
答えられない。アウトがどうして目覚めないのか。その答えを、俺は正確に把握出来ていないからだ。
けれど、本能的にハッキリと分かる事がある。
何故、アウトがこうして長い、長い眠りについてしまったのか。
それは――。
「俺の、せいだ」
俺は穏やかな寝顔を見せるアウトの姿を、アボードの隣で見下ろす。呼吸はある。死んでいる訳ではない。むしろ、3日間も寝ているのに、体のどこにも異常がない。
異常がないのが、異常だ。
「なんだと?」
上手く出来ない呼吸の中、必死に口にした俺の言葉に、アボードの低い声が響く。この男には、知る権利がある。義務がある。なにせ、アボードはアウトのたった一人の弟だ。たった一人の家族だ。
——–俺の弟はアボードだけだ!
そう、俺は何度アウトの口から聞いただろう。
そして、その言葉に、何度、嫉妬しただろう。こんなにアウトに想ってもらえるなんて、無償の愛を貰えるなんて。
まるで、前世でニアに対して思ったように。何度、密かに思った事だろう。
「俺が、アウトに言った」
アウトは命を賭けて、この弟の為に飛んだ。弟の幸福の為に。
———ずっと!お前が“イン”だと思っていた!
———インじゃないっ!じゃあ、お前は誰なんだ!?
———同じような事を、同じような表情で俺に言って!惑わせて!期待させて!
———インに会わせてやる?お前なんかに何が出来る!?
脳裏に過る言葉達。
あの日、まるでモヤがかかったように曖昧だった記憶は、時間と共に、まるで“誰か”の記憶が定着するように俺の中に染みわたって行った。
思い出し、自覚し、眠り続けるアウトを見つめる。これで、分からない方がおかしい。最後に見たアウトの顔は、どこまで行っても笑顔ではない。
全てを諦めて、もうその目は俺を見てはいなかった。
アウトは、俺のせいで。
「インに、会わせろ、と。俺はずっと、お前を、インだと、思っていた、と。お前は一体だれ、なんだと」
長い時の眠りについてしまった。
「ふざけんなっ!?」
次の瞬間。俺の体は、掴まれた胸倉から物凄い力でアボードに引き寄せられていた。目の前には、爛々と怒りと憎しみを募らせる強い瞳。
「おいっ!?俺は言ったよな!?」
悲痛な怒声が俺の耳を貫く。それと同時に、部屋に居るバイやトウ、アバブ達からも息を呑むような悲鳴が上がった。
「何度も、何度もっ!俺はアンタに言ったよな!?」
此処に居る人々は皆、取り戻せない“過去”ではなく“今”を、“アウト”を愛する者達だ。俺とは違い、幸福の在処を今この手に抱いていた。
それを、俺が。
「アイツは何も覚えてない、ただのガキだったんだって!アウトって名前は父さんが付けたモノで!アイツはそれを大事にしてたって!言ったよな!?」
壊した。
「なぁ。アンタにそれを言われたコイツは……どう思っただろうな?!」
「……すま、ない」
怒りと憎しみから、じょじょに移り変わる感情の色。俺の眼前に在る、アボードの瞳に映し出されるのは、最早悲しみしかなかった。
「お前も……あの女と同じだ。勝手に期待して、違うと分かれば突き放す。どいつもこいつも勝手だ。……その周りの勝手に、コイツは何度、傷付けられてきたか。お前に分かるか?」
「すまない」
くしゃりと歪むアボードの表情。けれど、その目から涙が流れる事はない。ただ、ほんの少し、薄い涙の膜が目を覆う程度だ。
きっと、この男が素直に泣けるのは“兄”の前だけだったのだろう。
「なぁ、ウィズ」
「……なんだ」
それまで掴まれていた胸倉から、スルリとアボードの手が落ちて行く。ストンと、落ち、肩を落とすアボードの姿に、いつもの威風堂々たる姿は、欠片もなかった。
最早、アボードは俺の事など見ておらず、ベッドに横たわるアウトの、兄の事だけを見ている。
「かえせ」
俺は、この咎を待っていたのかもしれない。
この3日間。目覚めぬアウトの隣で、少しずつ霧が晴れるように開けていく記憶を、この手にとりながら。
「かえせ。俺の家族を、兄さんを、かえせ」
「ごめん、なさい」
俺は、完全に理解した。
———-約束する!俺が必ず、お前を幸福に連れて行くから!
アウトとインを“同じ”だと信じる事で保ってきた意識が、今は完全に分かれてしまっているのを感じる。ハッキリとこの身に宿る2つの意識のうち、俺は完全に一方の幸福を手放してしまったのだ。
アボードの隣で、俺は共に眠るアウトに目を向けた。
今、こうして目を開けないアウトを前に、押しつぶされそうになっている俺。心の中で、インはどこだと叫ぶ俺。
———-ウィズ。俺は“アウト”だ。
「……アウト」
そう、何度もアウトは俺に言った。伝えてくれていた。
———-俺はお前の事が好きだよ。だから、お前が幸せになる手伝いを、俺はしたいと思う。
「俺は、」
こんな俺を、好きだと言ってくれた。笑いかけてくれた。
———ウィズ。一緒にインを探そう。
「お前のことを、」
俺の幸福を、心から願ってくれた。
俺は無意識のうちに、眠るアウトに手を伸ばしていた。片方の意識が、アウトに触れたいとそう叫んでいるのだ。
けれど、その俺の手は、すぐ隣に立つアボードの手によって止められた。腕が掴まれる。触れるな、とでも言うように。
「もう、それ以上言うな」
「っ」
アボードは俺を見て、もう怒ってはいなかった。掴まれる手も、力などなく、殆ど触れるようなもので、振り払おうと思えばいくらでも振りほどけただろう。
その感触に、俺は共に同じベッドで眠りについた時に添えられていた、あのアウトの手を思い出した。
添えられただけの手。それは何かを掴み取る事すら諦めた、アウトの意思そのもののようだった。
もう、アウトは俺の手を掴む事すら出来なかったのだ。
俺が、アウトを拒絶したから。
「頼むから。もう、何も言うな」
これから、俺がもし“イン”に会えたとしても。
きっと、俺の手には“鍵”がもたらされるのだろう。
地獄の扉を開く鍵が、この手に。