『オブ。お前は今日、インを助けたんじゃない。死にたくないと願った、自分自身を救ったんだよ』
『っふっくぅ』
とうとう、オブが泣いた。
その涙に、俺の足元で、一人だけ泣かずに全てを黙って聞いていたインが、ゆっくりと立ち上がった。
驚いたことに、インは一筋の涙すら流していなかった。ただ、その目は驚くほど静かで、涙を流すオブを前に、まるで“大人”のようだった。
そんなインの拳は、強く、強く握り締められている。あの、ぐうの悪い手になっていたのだ。
『……オブ』
けれど、どうやらその手は人を殴る為の悪い手ではなかった。
インは小さな声で、涙を流すオブの名を呼ぶと、更に強く拳を握りしめ、囁くように言葉を続けた。
『オブ。助けてって言って、ごめんね』
『っ!』
ごめんね。そう言ったインに対し、オブは大きく目を見開くと、そのままインに向かって縋るように抱き着いた。
抱き着いて、そりゃあもう声にならない泣き声を上げた。か細い悲鳴に近いその声に、インは自身の手を背中で組む。組んで拳を震わせている。
『手を、離してあげれなくて、ごめんね』
『ぅぅぅぅぅ』
インは拳を作る事で、耐えていたのだ。必死に手を掴み、オブまでも谷底に連れて行こうとした自身の行いを、諫める為に。
そうか、ぐうの手はそういう使い方もあるのか。俺の知らない使い方だ。
『イン……もう、崖には、行くなよ』
そして、俺は、最後。吐き出すようにインに向かって口にすると、インは結局、泣く事も、喚く事も、怒る事もなく、俺の目を見て深く頷いた。その目は、もう“子供”の目ではなかった。
『うん。ごめん、スルー』
スルー。
俺の名をインがはっきりと呼んだ。お父さん、ではなく。スルー、と。
もうインもハッキリと感じたのだろう。この約束は、大人が子供に一方的に行うモノではないのだ、と。
分かったからこそ、わざと俺の名を口にして約束した。
あぁ、もう。どうして子供の成長は、こうもあっという間なのだろうか。俺は、心の中に吹き荒れていた凍えるような吹雪が止むのを感じると、今度は、秋風のような、少しの冷たさを帯びた風が吹くのを感じた。
一抹の寂しさが、つむじ風のように心の中を行ったり来たりしている。
『はぁっ』
俺はその風を振り払うように、全てを黙って見守ってくれていた男へと目を向けた。あれらは、オブに向けた言葉であり、ヨルに向けた言葉だったのだが、無事、伝わっただろうか。
『ザン』
俺は静かに、一歩、また一歩とヨルへと近寄った。ヨルはと言えば、なんとも感情の読めない顔で、ジッと此方を見つめ、『スルー』と、俺の名を口にした。
『ザン。うちの息子が、本当に悪い事をした』
あぁ、これじゃあ、約束していた水浴びも無しだ。ザンに向かって頭を下げる片隅で、そんな事を考えてしまう俺は、なんて酷い人間なのだろうか。
自分の事ばっかりで、本当にこの俺は素晴らしくない。
『償っても償いきれない』
そんな事より。オブの手は大丈夫だろうか。大事でないといいが。本当なら、俺がオブを医者に診せてやらねばいけないのだろうが、不甲斐ない事に、やっぱり俺にはその甲斐性はないのだ。
『スルー、頭を上げろ』
『……』
静かに紡がれたヨルの言葉に、俺は抗う事なく顔を上げる。俺は、ヨルの“こうしんりょく”だ。俺はいつだって、ヨルの望むがままだ。
『俺は……父親としての日が浅く、経験も、少ない』
『……』
『あのオブに、何と声を掛けるべきかも、分からなかった。お前やオポジットのように、振る舞えない。なぜなら、俺は“父親”をサボって生きて来たからだ』
淡々と述べられるヨルの言葉の意味を、俺はあまりよく理解する事が出来なかった。父親をサボるとか、経験が浅いとか。ヨルは立派なオブの父親ではないか。と、俺はそう思うのだが、ヨルはそうは思っていないらしい。
『ただ、スルー。こんな俺でも、これだけは分かる』
『なんだ?』
少しだけ語気の強くなったヨルの言葉。
俺はヨルから来るかもしれない𠮟責か、罵声か。それとも別の“何か”か。それを覚悟しながら、ヨルの目を見つめた。
けれど、次にヨルの口から出てきた言葉は、俺の予想する、どれとも違うモノだった。
『お前が、俺の言わなければならなかった言葉を、代わりに言ってくれたという事だ』
『……ザン』
『スルー。俺が不甲斐ないばかりに、オブの父親役まで買って出させてしまった事を、心から詫びる。嫌な役目を押し付けてしまって、すまなかった』
なんだろう。何故、俺はヨルから逆に謝られているのだろうか。俺は、ヨルから殴られる覚悟で謝罪をしたというのに。
俺は余りにも訳が分からない状況に『えっと』と、視線をあちこちへと彷徨わせた。すると、それを見ていたオポジットが、先程までの怒気を一切消して、俺達の元へと近寄って来た。
『お前ら、仲直りは済んだのか』
『え?』
オポジットの言葉に、俺は思わず呆けた声を上げるしかなかった。
仲直り、だと。いや、そもそも俺とヨルは喧嘩をしていたのではない筈だ。喧嘩をしていたのは、子供達の方で……いや、子供達も別に喧嘩をしていた訳ではない。
『仲直りは済んだのかって聞いてんだよ』
けれど、畳みかけられるように問うてくるオポジットの言葉に、俺は勢いに押され思わず頷いてしまった。どうやら、それはヨルも同じだったようで、視界の端で、同じように頷く、汗まみれで、泥まみれの貴族の男が見えた。
『じゃあ、もう帰るぞ。俺は、腹が減ったんだ』
『あ、あぁ』
『そ、そうだな』
オポジットが空腹の腹をさすりながら、『フロム!帰るぞ!』と叫んだのを皮切りに、静まり返っていた広場に、一気に喧騒が戻る。
そのオポジットの、無意識に行われる力技に、俺はドッと疲れるのを感じると、隣に立つヨルの肩を叩いた。
叩いて、ともかく互いの“父親”としての労をねぎらったのであった。