10:理想の酒場

 

 

 

 あの恐怖の夜から1週間が経った。

 

 最初はあまりの恐怖に、外を歩く度にあの“フロム”という男に遭遇しやしないかとビクビクしていたが、その心配は杞憂に終わった。

 2日、3日と経つにつれ徐々に残っていた恐怖は薄くなり、1週間が経過する頃には、あの夜の事は夢だったのではないかとすら思えるようになった。

 

 誰かの前世の話で“喉元過ぎれば熱さを忘れる”という言葉を聞いた事がある。その通りだと、俺は今なら真にその言葉に頷く事ができる。

 過ぎ去ってしまえば、あの時の鮮烈なまでの恐怖すら人間は忘れてしまうのだ。

 

 無論、前世の事など覚えている訳がない。前世なんて喉元過ぎるどころか、体の中から完全に排出されている。

 

 この1週間というもの、俺は仕事終わりはコソコソと隠れるように、間借りしている部屋へと直帰していたが、もう限界だ。

 

 酒が飲みたい。色んな人の前世の話を聞きたい。

 

 さすがに、フロムと遭遇したあの酒場には近付こうとは思わない。

それどころか、その付近の今まで通い歩いていた酒場にも、しばらくは近寄らないようにとは思う。喉元を過ぎても、その位の危機感は残していきたい。

 

 俺はその日仕事終わりに、部屋と職場からひと駅分南に逸れた街に下り立った。

 

 この駅で降りたのは始めてだ。

 

ここは首都の中でも比較的に居住区に近い為、あまり大袈裟な酒場はない。

 ないが、こういった人の生活に密に接している場所にこそ、隠れた良い酒場があったりする。

 俺の勝手な持論だが。

 

 一本路地奥に入れば、そこには仄かな光を灯しいくつかの酒場がちらほら見える。

 俺は見慣れぬ酒場の並びに、久々のフワフワとした高揚感を味わいながら、まずどこの店に入ろうかとチラチラと辺りを見渡す。

 すると、看板に灯りの灯っていない酒場が一つだけ目に止まった。

 

 灯がついていないのだから、閉まっているのだろうと思い通り過ぎようとしたが、俺の足は店の前で止まってしまった。

 

「……いいな、ここ」

 

 思わず独りごちる程に、その酒場の外観は俺好みの真ん中をいっていた。

 突然現れる扉、他には何も装飾はなく、申し訳程度に上部に看板らしきものが出ている。

 この、どこか隠れているような出で立ちがとても好みだ。扉のノブか銀色で細かな装飾がさり気ないのも良い。

 

 しかも上部のみガラスになっている扉を覗きこめば、そこには更に俺好みの空間が広がっていた。

 

 ガラスの先に見えたのは階段だった。

 

 しかも、上へと登る階段ではなく下へ降りる階段だ。

 それは、店自体が地下にある事を示していた。そして、階段の奥、本当の店の入り口からは微かなオレンジ色の光が見えている。

 

「………いい!」

 

 なんて、俺の好みのど直球を行く店だろうか!

 地下に続く階段は狭く、人が二人並んで通るには窮屈なくらいだ。

 

 それが、またいい!

 

 もし、俺がこの店の店主であるなら、この階段の両壁には様々な店や、イベント、それこそ何の秩序もない沢山のチラシをベタベタと貼り付けたい。

そして、下へ降りる程に灯りを程よいグラデーションでつけていき、音楽がじょじょに耳をつくように演出したい。

 

 自分の家から歩いてすぐの所にこんな酒場があったなら、どんなに幸せだろうか。

家という日常のすぐ側にある、階段を一段一段降りる度に増す、この怪しい非日常感。

 そんな酒場を俺はいつか作りたいと望んでいるのだ。

 

 その理想のカタチが、今目の前に原型としてある。

 

 俺はガラスから下へ降りる階段を見つめながら、最早自分が客としての気分ではない事に気付いた。

 俺はこの入り口を見た瞬間から、この店のマスターになってしまっていた。

 

 金を貯めて、いつか自分の店を開きたいと、俺は作り物の前世の自分に、今の俺の夢を乗せて語った。

 その夢の理想形が、今目の前にある。

 俺は押し寄せる衝動に逆らえず、真っ暗な階段へと通じる扉に手をかけた。

 

 ガチャリ。

 

 扉はなんの障害もなく開いた。

 階段の一番下からは灯が見えるのだ。もしかすると店自体は、きちんと開いているのかもしれない。

 

 コンコンコン。

 

 俺は高鳴る胸を押さえつけながら、ゆっくりと階段を降りていった。

すると、更に俺を高揚させるように、俺の耳には俺好みのアップテンポな弦楽器のメロディが、じょじょに聞こえてくる。

 

 ああ!なんてことだ!ここに俺の理想の酒場があった!