30:しあわせのかたち

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『オブ!これでいい?』

『だめだ。ここはもっとハネないと』

『むつかしいなぁ!』

 

 地面に書いた僕の文字を、コイツは一生懸命マネをする。1日の僅かな時間だけれど、僕たちは毎日、暇を見つけては時間を共に過ごすようになった。

最初みたいにあてずっぽうな時間に、コイツが僕のところに押しかけるのではなく、きちんと時間を約束して会っているのだ。

その為に、懐中時計をこっそりとコイツに渡して、すれ違わないように会う時間を決めた。

 

 もちろん、時計の見方も僕が教えた。

 

 コイツはバカだけど、別に物覚えは悪い訳ではなかったのですぐ覚えた。懐中時計を貸すと言った時、最初はコイツも泣きそうな顔で拒否したけど、無理やり持たせた。

壊したらどうしようとか、失くしたらどうしようとか最初は本当にうるさくて仕方がなかった。あんなにキラキラした目で見ていたから、てっきり喜ぶと思ったのに。

 

けれど、そんなコイツも今では嬉しそうに懐中時計を撫でたり、意味もなく見つめていたりするので渡して良かったと思う。

 

 僕も暇ではない。決められた時間しか自由には動けないのだから、それを無駄にはできないのだ。懐中時計を、コイツに教えたように本当の意味で“使った”のは、実は僕も初めてだった。

 

 今までは、ただの飾りだった懐中時計。けど、今は違う。

人と人とがすれ違わないように。会いたい人に会えるように。

懐中時計はその役割をきちんとこなしている。

 

『オブ!これはどう?』

『ちょっとは良くなったんじゃないか』

『よし!次は、次は何を書こうかなぁ。ねぇ、何が良いかな?オブ』

 

 オブ、オブ、オブ。

 コイツは飽きる事なく、僕の名前を呼ぶ。本当は、こんな身分の低い奴に名前を教えてはいけないし、呼び捨てで呼ばれるなんてもっての他だ。

けれど、お前と呼ばれるくらいならと、名を尋ねてきたコイツに仕方なく名前を教えてやった。なんとなくだが、コイツに“様”を付けてよばれるのは落ち着かないので、特別に呼び捨てにする事を許した。

 

『そうだ!』

『ん?』

『オブ!次はオブって書く!教えて!』

『…………』

 

 なんでだよ。そこはまず自分の名前からだろう。

 とっさに口に出そうになるソレを、僕は寸でのところでせき止めた。コイツの顔がいつものように余りにもキラキラしているので、好きにさせる事にした。

 

『オブはこう』

『おお!オブみたいなかたちだねぇ』

『っふ、何だよ。僕みたいなかたちって』

 

 コイツはこうしておかしな事ばかり言う。

僕の名を、こんなにも嬉しそうに呼ぶ人は、他に誰一人居ない。父様も母様も、僕の名を呼ぶ事は殆どない。会う事すら、最近では余りない。使用人からは“お坊ちゃま”なんて呼ばれる。

 

 誰も僕の名を呼ばない。

 

 そのせいで、僕は自分が一体何なのか分からなくなる時があった。誰とも言葉を交わさない真っ暗な夜などはよくそう思ったものだ。

僕は誰で、何の為にここに居るのか。

何の為に生きているのか。

 

『オブみたいに、なんでも知ってる形!いっぱい、中に詰まってる!』

『それ褒めてるのか?』

『褒めてるよ!この字、オレ好きだ!』

『…………』

 

 そう言って笑うコイツを見ると、僕の頭の中には丸い、あの字が浮かぶようになった。

 

 しあわせ

 

幸せは腕の中に、嬉しい、大切、大好きを抱えた形。幸せは暖かいのだと、あの日、コイツと話して分かった。確かにそうなのかもしれない。幸せはきっと、こういう形をしている。

 

 コイツを見て僕は思わずそんな事を思ってしまった。

 

『自分の名前はいいのか?』

『自分……オレの名前?』

『見たくないか?お前みたいな形をしてるのかもしれないぞ』

 

 しあわせ、みたいな形を。

 

『くしゅん!』

『うわ!きたな!』

 

 僕がせっかくコイツの名前を書いてやろうとしたら、突然大きなくしゃみをしてきた。その余りの勢いに、ソイツの鼻からは勢いよく鼻水が飛び出す。

 

『あー、ぐじゃみでだー』

『ふけよ!汚いな!』

『ごめん、イブ!』

『だいたい、いっつも髪の毛が濡れてるからいけないんだ!汚いな!ちゃんと拭け!だから風邪引くんだよ!』

 

僕が怒ると、ソイツは『ごめんねぇ』と自身の袖で鼻水を拭いながら、ズビズビと鼻をすすった。袖で拭うなんて汚い奴だ。

最近、少し肌寒い。冬も間近だ。僕もこんな風にならないようにしなければ。

 

『まぁ、いいや。もう時間だから、お前の名前はまた明日教えてやる』

『うん!オブ!ありがとう!』

『明日も同じ時間。わかるな?』

『うん!この針がⅫとⅡのときに!』

 

——-じゃあね!

 

 そう言って別れた僕たちの明日は、なんてことない“明日”の筈だった。

『名前、おしえて』

 そう言って名前を聞いてきた時に、一緒に教えてもらったコイツの名前。

知ってる癖に、未だに僕はコイツの名を呼べずにいる。だから、コイツの名前を書いてやるついでに、名前を呼ぶつもりだったのだ。照れくさくて、ずっと呼べずにいた名前。

 

 しあわせみたいな形をした名前を。

 

 僕はまだ、一度も口にしていない。