44:現世の迷子

 ドンッ。

 

 俺の肩に衝撃が走った。

 とっさに衝撃の走った方を見てみれば、そこには顔色が真っ青な初老の男性が、呼吸もまともにできない様子で目を血走らせていた。

 

「……すっ、すみません。よそ見をしていたみたいで」

「……マルコに、あわねば。彼に、きけんが、せまっている。アウグスニスの街へいかねば」

「え?」

 

 虚ろな目で、しかし、どこか切羽詰まっている様子で俺に縋りついてくる男性に俺は一瞬思案した。

 

——-アウグスニスの街。

 聞いた事のない街の名だ。仕事柄、この皇都の市内市街全域、及び近隣の街にも下水道の供給管理を行う業務をしている俺は、地名や地理にも詳しい方だ。

 

 しかし、どんなに頭の中を地図を駆け巡ったとしても、アウグスニスという名前に該当する街は記憶にない。

 

「マルコがしゅうようじょに、つれていかれてしまう。軍がフィード人をころす。たくさん」

「…………」

 

 俺の腕に物凄い力で男性の手が縋りついてくる。その余りの力に、思わず顔を顰めてしまいそうになるのをグッと堪え、俺はともかく落ち着かせる事にした。

もちろん男性ではなく、自分自身を。

 

この人を放って去る事は容易だが、そうすればきっと俺は今日一日、ずっとこの人の事を気にして過ごしてしまう事になるだろう。そんなの御免だ。

 

「大丈夫ですよ」

 

—–収容所。軍。フィード人。

ここまでの単語の羅列で、俺はハッキリと理解した。この男性が口にしているのは“前世”の話である、と。

現在、この世界で収容所を有し、軍が人種で人間を殺していくような国は存在しない。もちろんフィード人なる人種も、聞いた事がない。

 

「でも」

「大丈夫」

「マルコが」

「大丈夫。マルコさんは大丈夫です。貴方の名前は?」

 

 たまに、酒場で見かける。前世と、今世の境界線が曖昧になり過ぎて今の自分を見失いかける人が。

 

 人間は酒に酔うと理性が薄くなる。そうなったときにその症状が顕著になる人は決して多くはないが、見かけたら、すぐに教会へ助けを求めなければならないと聞いている。教会は、そういった前世と今世の狭間で迷子になってしまった人をも導く役割があるそうだ。

 

 ただ、教会云々はこの人が一旦落ち着かねばどうする事もできない。まずは、自分が誰でどういう状況に置かれているのかを、自身で口に出させた方が良いだろう。

 

「わ、わたしの名……」

「はい、あなたの名前は?」

 

 道の真ん中に居ては他の通行人に迷惑が掛かるので、俺はその人の手を引いて道の脇まで歩いた。先ほどまで必死にしがみついていた筈の手が、今はダランと力なく揺らめいている。

 

「ここは皇都の中心街です。今日はお休みで、人がたくさん居ますね。今日はお買い物ですか?」

「…………あ、あぁ。そう、そうだ。私は部屋の、窓掛を変えようと思って」

「へぇ、いいですね!そうだ、俺も部屋の窓掛を変えてみようかな。最初に引っ越した時のまま変えた事がないんです」

「いい店があるんだ、この先に行ったところにある……そう、アロングという店で」

 

 そう、少しずつ目に意思が宿り始めた男性に、俺は少しだけホッとした。男性はハッキリと“この先”と言った。すなわち、もう完全に意識は今世に戻ってきているという事だろう。

 

「……ありがとう。キミのお陰で落ち着いてきたよ」

「良かったです。顔色も大分よくなってますね」

「……本当に、しっかりしないと」

 

 呟くように、しかし自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐ男性に、俺はこの後どうすべきか考えた。教会まで一緒に行くべきかもしれない。

幸いな事に、ここは帝都のど真ん中であり、ビヨンド教のパスト本会が最も近い。教会で体内のマナの流れを落ち着かせてもらった方が良いだろう。

 

「一緒に教会に行きませんか?」

「……教会」

「そう、すぐ近くですし、神官に相談した方がいいと思います」

 

 提案してみる。俺もまだアボードとの約束までには時間があるので、一緒に付いて行っても何の問題もない。

 しかし、俺の提案に対し、男性は静かに首を横に振った。

 

「いや、教会には昨日行ったばかりだから。もう大丈夫。本当にありがとう」

「昨日……そうですか」

「まだ日が浅いから……そのうち慣れる、きっとそうだ」

「へ?」

 

——-日が浅い。慣れる。

 それは一体どういう意味だろう。

 俺が疑問に思った時、男性は何度か自分の言葉に納得するように頷いた。顔を見てみると、その目は先ほどよりも更にハッキリしており、確かにこの状態で教会に行ったとしても、神官のする事はないかもしれないと思えた。

 

「私は予定通り窓掛を買いに行くよ」

「そうですか。大丈夫そうで良かったです」

「本当にありがとう。先ほど言ったアロングという店は、本当に良い店だから君も窓掛を変えたいのなら、いつか行ってみるといい」

「そうしてみます」

「それじゃあ」

 

 男性の背中を見送りながら、俺は深く息を吐いた。平静を装うなんて本当に向いていない。けれど、彼を放っておいたりしないで本当に良かった。これで、今晩のウィズの酒場での晩酌は、何にも心を囚われずに楽しめるだろう。

 

「窓掛か……今度見に行ってみるか」

 

 俺は部屋にある、何の遊び心もない無地の薄汚れた遮光の窓掛を思いながらコクリと頷いた。部屋が狭くとも、場所を取らずに着飾る方法はけっこういくらでもあるんじゃないか。

 

「要は考え方次第だな!」

 

 さて、もう少し時間があるし今度は本気で買い物に向かおう。俺はもう一度男性の向かった方を見て、彼のしっかりした足取りを確認すると、今度は本当に何の心残りもなく自分の向かう方向へと向き直った。

 

 

 まだまだ休みは始まったばかりだ。