48:世界一の幸福者

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 足音が聞こえる。

 

 

軽快で、元気な足音。

それが聞こえてくると、僕の心はフワッと軽くなる。けれど、そのフワッとした気分は次の瞬間、だいたい小さく萎む。

 

『おーい!オブ!オブ居るかー!』

『居るよ、何だよ……』

 

 遠くから聞こえて来た声に、僕は少しだけガッカリした。声の主、こうして毎日少しの時間でも顔を出してくれるフロムには悪いが、いつも俺はこの瞬間、浮いた心が勢いよく急降下するのだ。

 

 今のところ、期待は全部裏切られている。

 

『お前、ほんとに俺見て明らかにガッカリするのは止めろよ。せっかく来てやってんのに』

『……ありがとう』

『全然心こもってねーし!』

 

 そんな事を言われても本当にガッカリして気分が落ち込むのだから仕方がない。

 

——あぁ、今日もインではなかった。

 

 最初は、インが生きてる事だけ知る事が出来れば満足だった。

 けれど、フロムから元気になってきているらしいインの話を聞く度に、早く会いたくて、どんどん気持ちが欲張りになる。

もしかしたら今日はインが会いに来てくれるかも。そう、何度思っただろう。

 

『でも、良い報告があるぜ。俺、さっきインと窓越しに喋ってきた』

『っな、なんで!?フロムだけ!僕は!?』

『これでもコッソリ親の目盗んで会ってきたんだよ!子供が病気になると、完全に治るまで、子供同士じゃ会うなって言いつだからな』

『でも、僕だって……インに、会いたいのに』

——僕の方がインに会いたいのに。

 

 あの日以来、無視されるのが怖くて村に近寄れない僕が悪いのに、どうしてもフロムがズルくて、羨ましくて、僕は片手に抱えていた本をぎゅっと握り締めた。

 毎日持ち歩いている『きみとぼくの冒険』。その第1巻。

 

 何度も何度も読む練習をして、今では本を見なくても1巻だけなら全部暗記して読み上げられるようになった。けれど、この本は中に描いてある絵も大事な物語の一つなので、こうして毎日持って来るのだ。

 

『インのやつ、このまま熱が下がったら、明日には外に出ていいって言われたってさ!』

『ほんとう!?』

『ああ!まぁ、まだ病み上がりだから無理はできないけど、家の中も飽きたらってアイツ凄く喜んでた』

『そっか……』

 

 フロムの言葉に僕の心は一旦落ち込んだ気持ちが、もう一度しっかり浮上するのを感じた。  

 

 心がフワフワする。

 あぁ、もうすぐだ。もうすぐインに会える。

 

 もういつからインに会っていないだろう。そもそも出会ってからそう時間が経っていないのに、僕にとっては凄く凄く前からインとは出会っていた気がする。僕にとって、インの居なかった人生なんて、まるで無かったみたいに。

 

 そして、きっとインに会えていなかった日も数えれば10日程度の話だろうに、もう凄く凄く前から会えていない気もする。それこそ何年も会っていないような。

 

 僕の中での時間の感覚が、インの部分だけはおかしくなってしまったみたいだ。

 

『それと、インが言ってたぞ』

『インが?なんて?』

 

 僕はフロムの言葉に被せるように口を開いていた。インが言っていた事。直接じゃなくても、なんでも聞きたい。一番は直接聞きたいけど、今は間接的でもいい。なんだって知りたい。

 

『早く、オブに会いたいってさ』

『…………っ』

 

 それを聞いた瞬間の僕は、きっとこの世界で誰よりも幸福だったに違いないと思う。会いたい人が生きていて、そして、会いたい人が自分にも会いたがっている。

 

 こんなに幸福な事って他にないと思う。その時、何故か僕はお腹の下あたりがピリピリするのを感じながら、凄く変な事を思ってしまった。

 

 

——–あぁ、生まれてきて良かった。

 

 

『アイツ、俺が会いに行ったのに、オブの事ばっかり聞いてくるんだぜ?せっかく俺が会いに行ってるのに。オブに時計返してくれた?とかオブは怒ってない?とかオブは風邪引いてない?とか。お前が風邪引いてるんだろ!って、俺おかしくってさ』

 

 そう言って笑うフロムの言葉を聞きながら、僕はどんどん体中の全てが熱くなっていくのを感じた。その時に僕の頭の中に浮かんだ言葉は、笑顔でインが口にしていた“しあわせ”の文字。

 

 その時、僕は心の底からその言葉の意味を理解したのだ。だから、インに教えてあげないといけない。“しあわせ”は暖かいなんてものじゃないんだって。

 

 “しあわせ”は、とても、とても、熱いんだよ、と。

 

『でさぁ、インの奴またそこから変な事言うんだぜ!』

『…………』

『……え?おい、なんだよ!なんでオブ、お前』

——-泣いてるんだよ!?

 

 フロムの慌てたような言葉に、俺は『何を言ってるんだ?』と不思議に思った。僕は泣いてなんかいない。悲しくもないのに泣く訳ない。

 

 だって、こんなに嬉しいのに。

 

『あれ?』

 

 僕は自分の頬に触れてみると、確かにソコは濡れていた。しかもちょっとやそっとではなく、物凄く濡れている。

 次から次へと溢れてくる水。じょじょに、フロムの顔までぼやけて見えるようになってしまった。

 

『僕、泣いてないよ。だって悲しくない』

『……いや、泣いてるよ。どうしたんだよ!お前こそ風邪引いたんじゃないのか!?もう今日は帰れ!』

 

 フロムの言葉に、僕は首を横に振る。涙を止めるように袖で拭う。けれど、全然その涙は止まってくれない。

 

『帰らない。僕はインの話を聞くんだ』

『えぇぇ……泣いてる奴に話辛ぇよ』

『泣いてない、僕は、泣いてない。泣いてないよ』

『いや、泣いてるって』

 

 きっと、今フロムは酷く困った顔をしているに違いない。ただ、止まらぬ涙に、僕は膝を曲げて顔をかくすように蹲っているので、フロムがどんな顔をしているかなんて本当のところは分からない。

 

 けれど、しばらく『泣いてるだろ!』と引き下がる事なく口にしていたフロムの言葉が止み、次の瞬間には俺の丸くなった背中に暖かい何かが触れてくるのを感じた。

 

『わかったよ』

『……かなしくない。だから、僕は泣いてない』

『そうだな』

 

 それはフロムの手だった。

 ぎこちなく僕の背を撫でながら、フロムはやれやれといった様子で話を続けてくれた。フロムの口から語られるインは、確かにインで、僕は目をつむってその話を聞きながら、僕の中にインを想像して聞いた。

 

 

——-ごめんね、熱があって約束の時間に行けなかった。

——-ねぇ、オブ。時計、ちゃんとフロムから貰った?

——-オブは風邪引いてない?

——-オブ!オレ、オブにずっと会いたかったよ!

 

 

 僕は、僕の中に居るインに走って駆け寄り、インの手をギュッと握って、そして言った。

 

 イン、僕もキミにずっと会いたかった。話したい事がたくさんあるんだ。さぁ、隣に座って。今度は僕の話だけじゃなく、インの話もたくさん聞かせて。

 

 ねぇ、イン。僕はキミの事をたくさん、たくさん知りたいんだ。