58:魔法のぼくたち

 

 

『はい、今日はここまで。大人の国の話はまた明日』

『えーっ!大人の国の話も聞きたいよ!』

『ダメ』

『ちょっとだけ!最初の方だけでいいから!』

『イン?僕ももう帰らなきゃだし。インだってあんまり仕事に戻るのが遅いと、またお母さんに夜ご飯抜きにされるだろ』

『ごはん抜きでもいい!気になる!』

『おいおい、それ本気で言ってんのか?イン。俺なんて昼飯食った直後からもう腹ペコだぜ?』

 

 インの言葉に隣に座っていたフロムが信じられないという表情を浮かべる。確かにフロムからしたら食事抜きなんて耐えられないかもしれない。きっと、フロムは今、誰よりも早く成長期を迎えているのだろう。

 

 毎日会っているから分かりにくいが、その体は出会ったばかりのあの日より、少しずつ、だけど着実に成長しているようだった。

きっと、体が食べ物を常に欲しがっているに違いない。

 

 インだってそんなフロムとは同じ年に生まれたと言うからには、同じように体が食べ物を求めているだろうに、今のインにとっては食べ物よりも物語の続きの方が大事なのだろう。

 

 あぁ、もう。そんなだから、インはフロムよりも僕よりも体が小さいんだ。それに、痩せすぎだ。

 

 そんなだから、風邪なんか引いたりするんだ。死にかけたり、するんだ。

 

『ダメ。絶対ダメ。ちゃんとご飯食べなきゃ、もう続きは読んであげない』

『えぇっ!いやだ!分かったから!ちゃんとご飯食べるから!そんな事言わないで!オブ!怒らないで!』

 

 僕はそんな怖い顔をしていたのだろうか。

インは僕の言葉にギョッとした表情を見せると、必死に僕に謝ってきた。少しだけ泣きそうなその顔に、僕は余り感じた事のない、なんだか胸の中がいっぱいになったような不思議な気持ちになるのを感じると、インの頭にポンと手を乗せた。

 

「よし」

 

 良かった、髪の毛は濡れてないみたい。今日は川には行っていないようで安心した。

もう川に行って水浴びなんてするなと言っても、未だにインはその言いつけを破って川に行く事があるから油断ならない。

 

 

——–だって、汚いままオブに会いたくない。

 

 

 そう言って、なかなか言う事を聞いてくれないインに、僕は何度頭を抱えたか分からない。初めに、なんの気なく言ってきた『汚い』『臭い』という言葉が、実はどれ程インの中に深く突き刺さっていたのか、首を振るインを前にすると、何度も思い知らされる。

 

 あぁ、汚くない、臭くないと何度言えば伝わるだろうか。

 

 そうこうしているうちに、またあんな風に具合を悪くしてしまったら今度こそどうなるか分からないのに。きっかけは全部僕のせいなのに、頑として水浴びするのを止めようとしないインに、僕はとうとう本気で怒ってしまった。

 

——僕に会う事が理由で、水浴びをするのなら、僕はもうインとは会わない。

 

 僕にとっては一種の軽い駆け引きのつもりだった。本当はインと会わないつもりなんて毛頭無くて、ただちょっとでもインの水浴びを止めさせる、一つのきっかけにでもなればと、それだけだったのだ。

 

 そしたら、急にインは無言で首を振って、そのうち「いやだいやだ」とうわ言のように泣き始めた。まさかこんな風にインを泣かせる事になるなんて思っていなかった僕は、本当にびっくりしたのを覚えている。

 

 【きみとぼくのぼうけん】の続きが聞けないのが嫌なのか、それとも僕に会えなくなるのが嫌なのか。

 出来れば後者であって欲しい。そんな事を考えていると、いつも僕の心は胸の中がいっぱいになるような、そんな満たされた気分になるのだ。

 

 インが泣いているのに、そんな事を考えてしまう僕は本当に嫌なヤツだと思う。

あぁ、やっぱり僕の方が、断然汚れているじゃないか。そう、僕はインを前にすると、いつも自分がとても汚い奴に思えて仕方がなくなる時がある。

 

 けれど、不思議と僕はそんな自分を嫌だとは思わなかった。

 

 むしろ、これが本当の僕だったのだと、すんなり受け入れる事が出来た。きっと、今までの僕はただの抜け殻だったのだ。

 

 やっと中身が入ってきたみたいで、むしろ安心する。

 

『なぁ!明日は3人で大人になる薬を探しに行かないか!』

 

 インが僕の前でオロオロとする中、フロムがまたおかしな事を言い出した。大人になる薬なんて、そんなモノある訳ないのに。いくらフロムも【きみとぼくのぼうけん】が気に入ったからと言って、そんな小さな子供みたいな事を言い出すとは思わなかった。

 

 そう、僕がフロムに呆れたような目を向けた時だった。

 

『オレも探したい!大人になる薬!』

『え?』

『ねぇ!ウィズ、明日一緒に森に大人になる薬を探しに行こうよ!』

 

 先ほどまでオロオロしていたインが、今では目を輝かせて僕を見ている。本当にインは表情がコロコロ変わる。オロオロ、コロコロ本当に忙しい奴だ。

ただ、僕はインのこの目に本当に弱いのだ。この目は僕をどんな事があっても頷かせてしまう。

 

 僕のお気に入り。僕だけの大切。

 

『わかった。じゃあ、明日は本はお休みでいいんだな?』

『……ぐ。う、うん。俺も一緒に薬を見つけて、大人国の話を聞く』

 

 本当は続きをすぐにでも読みたい癖に。けれど、大人になる薬も捨てがたい。そんなインの全てが詰まった表情に、僕は声を上げて笑ってしまった。

 

『あはは!じゃあ、明日は大人になる薬を探しに行こう!』

『よし!じゃあ、高い所にあったら、俺が取って来てやる!』

『じゃあ、オレは狭い所にあったら取って来る!』

 

 こうして、僕たち3人は在りもしない薬を探して、森を探検する約束をした。あぁ、なんてバカな事をしているんだろう。

 

 大人になる薬なんかなくても、僕たちはいつか大人になるのに。そう思ったら、僕たちは既に魔法のかかった特別な人間のような気がしてきた。

 

 僕たち子供はまだ幼くて力もなくて、いろんな事が不自由だ。けれど、きっと大人になったら、その不自由さもきっと無くなる。

 

 僕たちは自由な大人になる為に、今日も魔法のような一日を駆けだしていく。