59:再び、画家

 

         〇

 

 

 

 

「あぁ、いらっしゃい!お久しぶりですね!アウトさん」

「あ、ハハ。お久しぶりです」

 

 

 そう言って笑顔で迎えてくれた店主の笑顔に、俺は懐かしさと少しの後ろめたさで乾いた笑みを浮かべた。

 あぁ、本当に久しぶりだ。

 

「今日はどうします?」

「えっと、じゃあ。いつもの、エビヅル酒の白で」

 

 ここは、俺がトウに発見された酒場だ。

トウと出会ってから来る事のなくなっていた、俺のお気に入りの酒場の一つ。最早懐かしいとさえ思える店内は多くの客で賑わっており、俺にとっては、その賑わいや笑顔の店主が、どこかよそよそしく感じた。

 

 そんな多少の居心地の悪さを感じつつ、俺はいつも座っていたカウンターの席へと腰を下ろした。

 

「あぁ、もう」

 

 それもこれも、全部ウィズのせいだ。

ウィズの酒場は、客が誰も居ない。居るのは俺とウィズ、そしてファー。

静かなのだが、リズミカルな弦楽器の音楽が控えめに響く店内。薄暗くも暖かい光に包まれる空間。未知なる世界中の酒の数々。

 

 そして、静かに紡がれるウィズの知識溢れる興味深い話。ふと放たれる皮肉も、そして時折フッと浮かべる笑みも、俺にとっては素晴らしい時間を形作る重要な一片だったのだ。

あの怪しくも魅力的な酒場が、俺にとっては最高の酒場だった。

 

 なのに、もう足を踏み入れる事は叶わないかもしれない。

 

 

——-イン。

 

 

 ウィズの右手が俺の髪の毛を指と指の間ですり抜けるように撫でる。そして左手は俺の背中を迷子の子供のように必死で掴んでくる。

 もしウィズが俺をインだと思い込んだまま、インへの執着と愛に飲み込まれてしまうような事があれば、それはきっと今のウィズを殺す事と同義じゃないのか。

 

「せめて、俺がホンモノだったら良かったんだけどな」

 

 そう、俺がどうしようもない感情に行きついたのと、頼んでいた酒が目の前に置かれたのは同時だった。

 

「お待たせしました。エビヅルの白です」

「ありがとう」

 

 店主はあの頃のように笑顔で酒を置くと、カウンターの中でクルクルとせわしなく動き始めた。ここは繁盛している。それはそれは忙しい事だろう。

 ウィズの酒場とは大違いだ。

 

「あぁ、もう!」

 

 どうしてこう俺は何かとウィズの酒場と比べてしまうのだろう。そりゃあ仕方がない。だってあの酒場は俺の理想そのものだったのだから。

せっかく酒を目の前にしたというのに、これではまるで意味がない。酒を飲む時は、どんな時も心を躍らせている筈なのに。俺は心に巣食うモヤモヤを払うように、エビヅルの白を一気に口に運んだ。

 

「あの、もしかして……貴方はインさんじゃないですか?」

「ん?」

 

 イン。またイン。

 俺は酒の入ったグラスに口を付けたまま、インと呼んできた人の方へ勢いよく振り返った。

 

——-だから!俺はインじゃねぇよ!

 

「あ」

「覚えてますか?私です、あの日、お互い前世の話をして盛り上がりましたよね?」

 

 俺は振り返った瞬間、目を瞬かせた。そこに立っていたのは、ちょうどトウに見つかったあの日。互いに酒を飲み交わしながら大いに盛り上がった、この男は―――。

 

「あなたは、画家の……!」

「そうです。覚えていてくださったんですね。嬉しいなあ」

「えっと」

「アズと言います。あの日、あんなに盛り上がったのに、結局お互い現世での名前を名乗っていませんでしたよね?」

 

 俺は思わず果たされた偶然の再会に、それまで燻ぶっていたモヤモヤが少しだけ晴れるのを感じた。そう、ウィズの酒場は最高の酒場だが、他の酒場に勝てない点が一つだけあった。

 

「俺はアウトと言います。よければ隣に座りませんか?」

「いいんですか?では、連れが来るまでの間、また少しお話しましょう」

 

 偶然の出会い。

 そうだ、俺は酒場で出会える偶然の出会いと、そこから紡がれる他者の興味深い前世の話が大好きだったのだ。なんだか、最近様々な事が一気に起こったせいで、そんな自分の当たり前の事すら忘れかけていた。

 

「マスター。僕にも彼と同じものを一つ」

「かしこまりました」

 

 素早く注文しつつ、アズはその身に纏っていた質の良さそうな上着を傍の衣装掛けに掛けた。

 

「連れというのは、あの国王様?」

「ええ。ちなみに、彼はセイブと言います。今日は少し授業が長引く予定みたいで、この店で待ち合わせてるんです」

「相変わらず仲が良いみたいですね」

 

俺が茶化すように言うと、アズは少し照れたような表情で口元に手をやった。その手には何かの着色料のようなモノが付いている。もしかすると、アズは現世でも芸術家のような仕事をしているのかもしれない。

 

「アウトさんこそ、」

「アウトで良いですよ。さん付けなんてしないでください。敬語もいりませんから」

「……そう、だな。それなら、僕の事も気軽にアズと呼んでくれ。もちろん敬語なんて使わないでくれよ?」

 

 そう互いに自己紹介を終えたタイミングで、店主からアズの酒がカウンターに置かれた。まるで見計らったかのようなタイミング。いや、実際きちんと様子を伺いながら一人一人に出しているのだろう。

これだけの客が居てこうも一人一人の客の様子に気を配れるこの店主は他の店にはない魅力の一つだ。

 

 本当に、客に酒を注がせるウィズとは大違いである。

 

「では、私の酒も来た事だし、飲みましょう」

「はい、では」

——-かんぱい。

 

 俺がいつもの癖で自分のグラスをアズのグラスに軽くぶつける。グラス同士のぶつかる小気味良い音が響き、それと同時に俺の「かんぱい」という儀式の言葉が放たれた。そんな俺の一連の行動を、アズは不思議そうな目で見ていた。

 

「これは?」

「あぁ、つい、癖で。これは弟の前世で酒を飲む時にやる儀式らしくて。なんでも、相手の健康やお祝い事を祈る意味で行われるモノだとか」

「わぁ。それは、素晴らしい儀式だ!それなら、僕もやらせてもらっていいかい?」

 

 そう言ってニコリと人の良さそうな笑みを浮かべるアズに、俺はあの日気持ちよく前世を話す事が出来た自分に深く頷くしかなかった。

 こうして、相手の事を常に肯定的に捉え、相手と同じ立ち位置に立ち、不自然じゃない距離を保ちつつ他者と交流するこの姿勢。

きっとアズにとっては特に意識的にやっている訳ではないソレが、自然と相手の気持ちを開く事に繋がっているに違いない。

 

「かんぱい!」

「かんぱい!」

 

 カツン。互いにグラスをぶつけ合う音が、先ほどより少しだけ機嫌の良い調子を奏でているような気がする。