60:絵

 

 

「あの日、大丈夫だったかい?」

「あぁ、えっと。まぁ。ハイ」

 

 アズの言う“あの日”に俺はあの日からの一連の衝撃展開を思い出し、なんとも言えない表情を浮かべてしまった。

 大丈夫だったかと問われれば、特に日常に何の変化もない。

 

 けれど、俺の気持ちの面では大いに激震が走ったともいえる。

 なんと、言うべきか。

 

「大丈夫そうなら、良かった」

 

そんな俺の様子に、アズはフッと息を吐くと、自らの手元にあった酒を口につけた。

 どうやらアズは俺が余りその件について話したくない事を悟って、俺に会話の選択権を委ねてくれているらしい。

 

 あぁ、きっと思慮深いとはこういうアズみたいな人の事を言うのだろう。

 

「アズは今の仕事も画家なのか?」

「ん?あ、あぁ?この手か。画家というか、描くという事全般を生業にしている、自由業みたいなものかな」

 

 アズは自身の手にこびりついた色具の跡を俺の方に見せてくる。それは既に洗っても落ちなくなっているのか、アズの掌に色とりどりの彩を薄く色づかせていた。

 

「描く自由業。かっこいいな!今日は何を描いたんだ?」

「そうだなぁ、今日は東通りに新しく出来たミール焼きの店の看板を描いたし、新しく売り出す射出砂の包紙の図柄を依頼されたかな」

 

 アズはもしかしたら、その道では名の知れた人物なのかもしれない。射出砂の包紙の依頼や看板の依頼が来るなんて、名が売れてなければそうそう頼まれるものではないだろう。

 

「アズの絵が見たい!アズの絵が描いてある所に今度行くから教えてくれ!」

「っへ?それは、ちょっと恥ずかしいなぁ」

 

 そう言いつつ満更でもなさそうな表情を浮かべるアズに、俺はいつものように持って来ていた横掛けの鞄から、気に入りの手帳を取り出した。アズのような優しくも思慮深い人間が描く絵とは一体どういうものだろう。

 是非、見てみたい。

 

「お願いだよ。見たいんだ。絵が上手な人の絵って、きっと見てたら楽しいし。それにアズの絵はきっと素敵だと思うんだ」

「まったく、キミは本当に相手を喜ばせるのが上手いなぁ。そんなメモまで用意して」

「さっき、東通りに出来たミール焼きの店って言ってたよな?なんてお店?新しい包紙の射出砂は、いつ売り出される?」

 

 思慮深いアズに、むしろ無遠慮な俺。

絶対に釣り合わない俺達だが、いや申し訳ないが今週末の街歩きはアズの絵を探しに行く旅に出ようと、俺はもう決めてしまったのだ。

 

「わかった、わかった。教えるから……教えるから。その代わり、その手帳に描いてある、アウト。キミの絵も見せて?」

 

 そう言ってニコリと笑うアズに、俺は一瞬にして顔から火を吹きそうな恥ずかしかに襲われた。まさか、見られていたなんて。

 この手帳は俺の“いろいろ”と下らない事や、大事な事が全て記録されている。

 その中で、まさか、一番下らない事に分類されるモノを見られてしまっているなんて。

 

「い、いや。俺、その。絵はヘタクソで。ちょっと、落書きで描いただけで」

「上手いか下手かなんて関係ないさ。キミが僕の絵を見たがってくれたのと同じ理由で、僕もアウトの絵が見たいのさ」

「で、でも」

「この世界では写出砂なんて、便利なモノがあるだろ?それなのに、僕に絵の依頼が来るというのは、やっぱりそういう事なんだよ」

「どういう事?」

 

 俺は手帳を握りしめたまま、アズの穏やかな声に耳を傾けた。確かにそうだ。現実のままを映し出すなら、写出砂というこれ以上ないものがあるのに、人は、俺は、何故かアズの絵を見たいと思った。

 なんでだろう。

 

「人間が描く絵はどうしたって完璧に現実を映し出す事は出来ない。ただ、だからこそ“その人”という一枚の透かし紙の向こうに映る写実的ではない世界が魅力的に見えるんだ。その人生き方や、好きなモノ、他にも様々なモノをその人という透かし紙を通して見る、その人独自の世界。人は一人では生きていけない。他人との交わりの中でしか生きられないからこそ、そう言った他人の世界を通して見る別の世界に惹かれてしまう生き物なんだよ」

「わかるような、わからないような。でも、わかるような」

「おかしな事を言って混乱させたかな?」

 

 さすが芸術家だ。アズの言っている事は非常に抽象的で分かり辛いのだが、なんだろう。確かに、俺が“アズ”の絵を見たいと思った本質がそこには詰まっているような気がした。

ただ、上手いから見たいというよりは、この“アズ”という人間が描いたものだから見たいと思った。

 

 アバブもアズも、芸術や研究に精通する人というのは、こうして最後に人間の本質に触れていくモノなのだろうか。

 

「まぁ、簡単に言えば。僕はアウトという人間に、非常に興味を持ったから、キミの目で見ている世界を一緒に見てみたいという事だよ」

「はぁぁぁ、でも、あの、下手だから。恥ずかしい」

 

 そう、俺が未だに躊躇っているとアズは、その優しくもどこか渋みのある顔に、ひょいとイタズラを思いついた子供のような表情を浮かべた。

 

「もし、アウトが絵を見せてくれたら、お礼に僕の絵を一つプレゼントしよう」

「えっ、えっ」

「キミは僕の絵が見たいと言ってくれた。それなら、僕はアウト、キミに僕の見えてる世界をプレゼントしようじゃないか」

 

 それは俺の絵を見せる事と等価の条件になっているのだろうか。もしかして、既にアズは盛大に酔っぱらっているのではないか。

俺はチラとアズの手元にある酒に目をやった。しかし、そこには最初に一口二口以降、一切口にされず残った朱色の酒があるのみだ。いや、酔っぱらっている訳ではなさそうだ。

 

「くぅ」

「さぁ、どうする?」

 

 あぁ、アズの絵を一つ貰える。それは非常に魅力的だ。欲しいか欲しくないかで言うなら、欲しい。とても、欲しい。

 

 俺は意を決すると、手帳のページをパラパラとめくり、下を向いたままアズの方へと手帳を突き出した。どうせ、チラッと見られているならば、もう、今更恥ずかしがる必要はない。どうにでもなれ!だ。

 

「はい!」

「見ても?」

「この状況で聞く?」

「では拝見しよう」

 

 そう、どこかわざとらしく恭し気に言うアズの口調は、非常に楽しそうだ。俺はというと、アズの反応を見るのが、とてもじゃないが恥ずかし過ぎるので、ひとまず下を向いたまま、ジッと待つ事にした。

 こうなったら、絶対にアズの絵を貰わなければ。どんな絵だとしても、もう俺の部屋の壁に飾ると決めた。

 

 不思議な事に、俺はまだ見た事もない絵にも関わらず、既にアズの絵が大好きだと分かっている気がしたのだ。

 

「……やっぱり、キミの世界はとても素敵だ」

「お世辞は良いですって」

 

 俺の描いた絵。いや、落書き。それは射出砂をケチって自分で記録したファーの姿。それに、好きだった酒のラベル。この手帳の模様。好きなグラスの形。弟のアボード。あぁ、アバブも描いた。

 

 それに、あの店に居るウィズ。

 

 どれもこれも、俺のお気に入りを好き勝手描いたものだ。決して上手い訳ではないが、何でも記録する癖のある俺は、思いついた時に様々な事をメモするように描いてしまう。文字だけでは足りないと感じる瞬間が、俺にはたまにある。

 

「ここにあるものは、きっとアウトの好きなものなんだろう?」

「……うん」

「こういう気持ちで、これからも絵を描いて行きたいと、僕は心から思ったよ」

——-本当に素敵な絵だ。

 

 そうしみじみと口にするアズに、俺はそれまで下に向けていた顔をそっと上げてみる事にした。そこには、お世辞ではない、アズの心から穏やかな表情が浮かんでいる。その顔に、俺はやっとホッとする事が出来た。

 

「ありがとう。良いモノを見せてもらった」

「はぁ、緊張した」

 

 俺はアズから手帳を受け取ると、飲みかけだった酒に手を付けた。話しても喉が渇くが、緊張しても同じように喉が渇くらしい。喉に焼けるような感覚を残し去っていく酒が、今の俺には非常にちょうど良い刺激だった。