74:木登り

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『ねぇ、オブ。大丈夫?』

『はぁっ、はぁっ、はぁっ。だいっ、だっ。けほっけほっ!』

『あぁっ!オブ!どうしよう!どうしよう!』

『だいっ、だいじょう、ぶ』

 

 僕はやっとの事で登り終えた木に必死にしがみつくと、落ちないように枝の上へと腰を下ろした。隣ではインが器用に枝の上で立ったまま、こちらを心配そうに見ている。

 

『おーいっ!まだまだ上はあるぞー!』

『っはぁ、っはぁ。うえ?』

 

 そう、僕は先ほど登り終えたと思ったが、それは大きな間違いだった。乱れる呼吸で霞む視界のまま、僕がフロムの声のする上の方を見れば、そこには遥か高見の枝からこちらを見下ろして叫ぶフロムの姿が見えた。

 

 まだ、あんなに上まであったのか。必死に登って腰かけたこの枝は、まだまだこの大木な木の一番低い枝だ。フロムが居る場所でさえ、この木にとってはまだまだ中腹と言った所だろうか。

 

『は、はは。先は、長いな』

『オブ、もう無理しない方がいいよ』

 

 そう、立っていたインが軽やかに僕の隣へと腰かける。息一つ切らさないインこそ、既にこの大きな木の登頂まで登り終えて、既にここに戻ってきた強者だ。

 

 確かに、体が大きいのはフロムだ。その為、足の速さや力は圧倒的にインや僕よりフロムの方が上をいっている。

 しかし、木登りとなれば別だった。

 小柄で体の軽いインは、それこそ木登りに関しては独壇場だった。その軽やかに枝から枝へ飛び移っていく様に、俺は最早心配する暇さえ与えてもらえなかった。

 

 というより、自分が登るのに精いっぱいで、何も言えやしなかった。

 僕は力も早さも身軽さも、二人の遥か下をいっているのだから。

 

『っはぁ、っはぁ。インはっ、木登りが、好き、なの?』

『うーん、木登りも好きだけど、オレは高い所が好き!遠くまで見れるから!』

『っは、そっ、そっか』

『この木の一番上だったら、オブの元々住んでた街も見えるかなーって思ったけど、全然見えなかった!どこまで登ったら見えるかなぁ』

 

 そう言って、あの懐中時計を見た時のようなキラキラした目を見せてくるインに、僕は整わない呼吸のまま「どうかな」と苦笑した。首都のアマングはここからかなり遠い。僕もここに来るまでに馬車で5日はかかったのだ。きっと、インがどこまで高い木に登っても見える事はないだろう。

 

『上で見たら、他にも高い木があったから、今度はそっちから見てみる事にする!今日帰りに石で目印付けとかないと!』

『っはぁっ、そう、だね』

 

 けれど、そんなどうでも良い事実、インには必要ない。見えようと見えまいと、こうして笑顔で楽しそうにインが遠くを見つめられるなら、見えないなんて些細な事だ。

 

 ただ、あんまり先に行かれてインが見えなくなるのは不安なので、僕の見えないような所まで高い所には行かないで欲しい。

 

『イン、僕もがんばって、登れるようになるから……っはぁ、あんまり、遠くには、行かないで、ね』

 

 僕の言葉に、インの大きな目が更に大きく見開かれた。インの丸い黒目に太陽の光が反射してキラキラしている。あぁ、きれいだ。

 

『っ!置いていかないよ!ごめんね!いつも先に行って!次は一緒に登るよ!』

『っはぁ、っはぁ。いい、先に行って、いいから。っはぁ、あん、まり、見えない、ところは、やめて欲しいけど。先に行っていいから』

 

 そう、僕を待っていたらインは楽しめなくなるだろう。それに、少し先にインが居るから僕は走れるし、上にだって登ろうと思えるのだ。だから、それでいい。見えなくなる程遠くは不安になるだけだから。

 僕の言葉に何か言いたげな様子でこちらを見ていたインだったが、僕がインの頭にポンと手を乗せると、そのままの顔で静かに頷いた。

 

 よし、今日も髪は濡れていない。

 まぁ、分かっていたけどこれはもう癖だ。

 

『今日は川には入ってないよ』

『そうみたいだね、えらいよ。イン』

『オレ達同い年なのに、オブはお兄さんみたいなばっかり事言うよね』

 

 そう、一見不満なよう顔で言ってのけるインが、本当は僕に頭を触られるのが好きな事を、僕はちゃんと知っている。

最近分かったのだが、インには『やったらダメ!』というより『できたね、えらいよ』って言う方が効く事をようやく理解した。

 

『ふふ』

 

 僕が褒めると、インはあのキラキラした目になって、顔が隠しきれない程ニコニコする。今だって不満そうな顔を作れなくなって、すぐに笑ってしまっている。

 あぁ、今日のこの顔も、僕だけのお気に入りに仕舞わないと。

 

 だからこそ、僕もその顔が見たくて、分かっていても頭を触る事を止められない。

もう、こんなの、何の為の行為か分かったものではない。

 

 不純というやつだろうか。

 

『ごめん、っはぁ、イン。今日も、息が、上がって、上手に読めそうにないから……』

 

 僕は名残おしい気持ちを抑えてインの頭から手を離すと、肩に掛けていや横掛けの鞄に手をやった。この中には『きみとぼくのぼうけん』の3巻が入っている。森に入るようになって、僕は本をこの鞄に仕舞うようになっていた。

 これだと両手が空くし、木登りするにも走るのにも支障がない。

 

 けれど、結局走って息が切れてしまう僕は、あの日からインに物語の続きを読めないでいる。まだインの中の物語は楽しみにしている“大人国”には入っていないのだ。

 

『いいよー。インが読めるようになるまで、オレ待てる』

『あり、がと。だから、今日もインの、話を、きかせて』

 

 そう、こうして息が上がってしまう事を利用して、僕はインの話を聞く。確かに本が読みにくい事は事実だが、読めない訳ではない。ただ、物語に入ってしまうと、インは凄まじい集中力で感情移入をしてしまうせいで、全く会話が成り立たなくなるのだ。

 

 僕は、もっとインの事が知りたい。

 

『えぇ、オレの話なんてつまらないでしょ?』

『つまらなくないさ。面白い。すっごく』

 

 僕がジッとインの目を見つめながら言うと、その瞬間インは視線を上に向けたり、下に向けたり、ともかくせわしなく彷徨わせた。耳が少し赤い。

 

 きっと、嬉しいのと照れくさいのが混ざってこんな表情になるんだろう。

 あぁ、この顔もお気に入りに仕舞っておかないと。

 

『じゃあ、昨日はお母さんとお父さんの話をしたから、今日は、』

『ん』

『妹のニアの話』

 

 そう言ってニアの名前を出した時、自然とインの手が腰に掛けてある懐中時計に触れたのを、僕は見た。

 

『ニアはね、可愛いんだけど。なーんでも、欲しがるんだ。でも、可愛いから、なんでもあげたくなる』

 

——-でも、コレだけは絶対あげないんだ。

 

 インのそのあまり聞かない芯の通った声に、僕は周りの音を消してインの声にだけ集中した。