75:時計台

        〇

 

 

 

 今日は本当に散々な一日だった。

 俺はまだ時間はさほど遅くもないのに、日の暮れ始めた皇都の街を時計台から見下ろしながら思った。

 

 この時計台は皇都で一番高い場所で、観光地としても有名だ。今もこうして見渡している俺の周りでは、複数の男女が愛を語らいながら、美しい夕焼けを眺めている。

 

「……はぁ、きれいだなぁ」

 

 そんな中で、ポツンと立ち尽くす男一人の俺は周りの男女に挟まれながら、小さく独り言ちる。本当は写出砂で描画しておきたい程綺麗な夕焼けなのだが、なんだか今ソレをやると、更に切ない気持ちになりそうなので止めておく事にした。

 そうだ、この情景は俺の目にしっかりと焼き付けておいて後から自分で描いてみよう。

 

 今日、アズに習ったみたいに。

 

「アズ……気難しいって本当だったな」

 

 

 そう、今日1日、俺は散々だった。そう!散々だったのだ!

 

——ぶはっ!坊やかよ!

——この窓掛をください。

——オネーサンのその前掛け素敵ですね!

 

 朝は朝で、赤髪の男に“坊や”とバカにされ、買おうと思っていた窓掛は横取りされた。

 

 挙句、昼を食べようと茶寮のテラス席で、気に入りのオフラを食べようとしたところ、飛んでいた鳥に勢いよく取られてしまった。

 

 その日のオフラは俺の一番気に入りの具である、グルフの肉をタレに付け込んだモノを具として注文した。普段なら他の具よりも値の張るソレを挟むような事はしないのだが、今日は朝に嫌な事が続いたので、特別に自分に許可したのだ。

 

そんな、慰めのオフラだったのに。

グゥゥゥゥ。腹が鳴る。

 

「あぁ、腹減った」

 

 そして、何も食べれないまま時間がやってきてアズの所に行けば、アズは俺の顔を見る度開口一番言い放った。

 

『うん!今日のアウトの顔じゃ、ダメだね!今日はモデルは無し!』

『えっ!?えぇぇぇ!』

『今日、朝から何か嫌な事があっただろ?顔がそう言ってるよ。人物画だ。どんな表情だって描く題材としては興味深いものだが、僕がアウトで描きたいのは、そんな顔じゃない。だから、今日は描かない!』

 

 そう、清々しい程きっぱり言い放ったアズに、俺はウィズがあの日言っていた言葉を思い出してた。

 

——-彼は仕事の依頼に関しては気難しい事で有名だ。いくら金を詰まれても、彼は自分の良しとした仕事しか絶対に受けない。

 

 そう、確かにウィズが言っていた。あの言葉の意味を、俺はこの日、身をもって知ったのだ。アズがモデルをしてくれと頼み、俺をアトリエに呼んだにも関わらず描きたい顔ではないからと自ら断ってきた。

 アズは確かに芸術家だ。それも、自分のこだわりに魂一杯誠実な、前世からの芸術家。

 

「アズの描きたい俺の顔ってどんなだよ……」

 

 俺は時計塔の上でぼんやりとしながら思った。俺のような、どこにでも居るごく普通の容姿の人間を捕まえて絵を描こうとするからそうなるのだ。

しかし、さすがのアズも自ら呼び寄せた俺を「その顔じゃない」という暴君のような理由で門前払いする事はなかった。

 

『どうぞ、入って』

 

 アトリエの中に招き入れ、アズが絵を描く事はなかったが興味津々でアトリエを探検する俺に、アズは優しい笑顔で様々な説明をして、挙句色具と紙を貸してくれた。好きなように描いていいと言われ、最初は戸惑った俺だったが目の前に並べられた色とりどりの色具の魅力に耐え切れず、本当に好きなように絵のようなものを描いてみた。

 

『ふふ、やっぱりアウトの描く絵は素敵だね』

 

 そんな俺に、アズは色々と絵の事を教えてくれた。見たまま感じたままを描くと言いというような気持ちの面から、風景画や人物画を描く時の基礎を教えてくれた。まぁ、どれも要約すると“よく見、観察する事”の一点に尽きるようだった。

 

 そう考えれば、別にアズの家でモデルが出来なかった事はさして散々だった訳ではなかった。俺にとってはモデルをするより楽しい時間ではあったのだから。

ただ、別れ際にアズの放った一言は、またしても芸術家としての真骨頂がよく表れたものだった。

 

『アウトがずっと今日みたいな顔で僕の所に来たら、キミの肖像画はきっと100年経っても完成しないだろうから、そのつもりでね』

『……ハイ』

 

 描かない、ではない。

 100年かけたとしても俺の描きたい顔は描き続けるという旨の宣言をサラリと受けてしまった。

 

 ここへ来て、俺はなんともやっかいな芸術家に引っかかってしまったものだと、ようやく理解した。ただ、理解した時には遅かったし、もうここまでくれば100年でも200年でも付き合ってやろうじゃないかと思っている。

まぁ、そんなには長生き出来ないだろうから、出来れば俺が生きているうちに完成して欲しいものだ。

 

 そんな訳で、モデルも出来ずアズの所を出たので、ウィズの酒場に行くにも時間が早かった。だから、俺は今この時計台に居るのだ。

 

「本当に、綺麗だ」

 

 俺は、元来高い場所が好きだ。だからこの時計台にもたまに上りに来る。散々だったからこそ、高い場所から広い景色を見たかった。

 

 赤い赤い夕陽。皇都の街の東側へとゆっくり沈んでいくその光景は、やはりいつ見ても格別に美しかった。本当ならばもう少し眺めて観察して下りたかったが、どうやら周りの男女達の様子が、夕日の沈み方と相成って怪しい雰囲気になってきた。

 

 皆、互いしか見えていないから良いだろうが、俺は一人な為、ばっちり周りも見えている。

 

「下りよ」

 

 俺はどこか感情の籠らない声で呟くと、時計台の螺旋階段を降り始めた。本当はマナ動力で移動する昇降機があるのだが、生憎、俺は体内マナが皆無な為、自分で昇降機を動かせない。それに、動かせたとしても、ちょうど昇降機の前には、互いしか見えていない男女の1組が居たため、乗る事は叶わなかっただろう。

 

「うー、お腹すいたー。ウィズの所で何か食べ物も貰わないと」

 

 俺はうるさく鳴り響く腹に手を当てて、一段一段ゆっくりと時計台から降りて行った。ここを昇降機なしで上り下りする人間はそうそう居ない為、誰かとすれ違う事もない。足は疲れるが気楽は気楽だ。

 

「あの昇降機に乗って、他のぺア達と一緒に降りるくらいなら一人が気楽でいいよ」

 

 それにこの時計台の螺旋階段は内側に細かな絵が施されており、見ていて飽きる事はない。しかも、その絵というのは登るときと降りる時で物語が異なって見えるように作ってある芸の細かさ。

 

 ただ、登り終わった時も、下り終わった時も帰着は必ず“出会い”で終わるようになっている。最初にここに登ってそれに気づいた時は、大いに感動したものだ。

 ただ、この時計塔はかなりの高さを誇る為、この螺旋階段を使い登り下りする人間は早々いない。いや、ないとは思うが、もしかしたら俺一人かもしれない。

 

「もったいないなぁ」

 

 出来ればあの男女のぺア達も、一度は語らいながらこの階段を上ってみればいいのに。

そう思う頭の片隅で、ここを知っているのは自分だけで良いなんていう、ちょっとした独占欲と優越感もある。

 

 ここは、俺の、俺だけのお気に入りの場所だ。

 

「っし」

 

 最後の階段を下りると、時計台の大きな開け放たれた扉から外に出た。すると沈みかけだった夕日は完全に空から消え去り、あたりは薄暗くなっていた。

 

「さて、ウィズの酒場に行こう!」

 

 今日は散々だったが、今日はウィズの酒場で100年前の酒を飲ませて貰う予定だ。これから、何があろうとも楽しい予定として盤石だ。

そう、誰かの前世の話で聞いた事がある。

 

「終わりよければ、全て良し!」

 

 なんて前向きで良い言葉なのだろうか。俺は肩にかけていた鞄を「よいしょ」と掛けなおすと、ウィズの酒場へと足を向かわせた。

 

 

その時だ。