81:子供の駄々

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『オブ……ごめん!』

 

 

 僕は現れるなり、勢いよく頭を下げて謝ってきたインに思わず目を見開いてしまった。

 

 そんなインの後ろではフロムと、更に可愛らしい一人の女の子が、その大きな黒々とした目を輝かせて僕の方を見ていた。その大きくてキラキラした目は、俺のよく知るお気に入りの目そっくりだ。

 

 

——-あぁ、これがインの妹か。

 

 

 初めて見る僕に興味津津な様子を隠しきれないその目は、まるでインのよう。ただ、初めて見る僕を警戒しているのか、一向にインの後ろから出てこようとしない。

 

『あの、えっと。これ、オレの妹。ニア。勝手に付いてきたというか……なんというか』

 

 そう、インはインで背中に居る妹を連れてきてしまった事を後ろめたく思っているのか、頭を下げたまま顔をあげようとしない。きっと、僕が他の村の子供と会おうとしないのを、僕が村嫌いだからと勘違いしているのだろう。

 

 確かに最初はそうだった。けれど、今となっては逆だ。僕が村人から嫌われているから村に行けないのだ。全部、僕の最初の態度が悪かったからこそ起こってしまった事なのに、どうやらインは何か勘違いしてしまっているらしい。

 

『イン』

『っは!はぃぃぃ!』

 

 僕が名前を呼ぶと、インは可哀想な程肩を揺らして飛び上がった。僕ってそんなに怒ると怖いのだろうか。僕がインを怒った事なんて無い筈なのに。

 

……いや、無い事はないか。僕は一瞬にしてここ数か月の過去を振り返ってみて、自分の認識を改めた。僕はけっこうきちんとインに対して怒っている。

 

 そうなれば、早いところインのこの抱く必要のない恐怖と謝罪を早いところ撤回してあげなければ。

 

 ニアの大きな黒い目は、確かにインそっくりだが、僕はやっぱりインの目が見たい。そう、早いところ顔を上げて目を合わせて貰わないと。

 

『イン、何を謝っているの?』

『へ?』

『後ろに居る子、インの妹でしょ。別に構わないよ』

『……オブ』

 

 そう、極力優しい声を心掛けて俯くインに声を掛けると、その瞬間顔を上げたインは、なんとも形容し難い表情を浮かべていた。

 

 この表情が表すインの感情を、僕は一生懸命考えてみるが、イマイチよく分からない。僕がインに『どうしたの?』と声をかけようとしたとき、それまでインの後ろに隠れていたニアが少しずつ、インの背から前へと歩いて出て来た。

 

 

『ゆびわ見たいの』

 

 

 そう、どこかたどたどしい口調で声を上げるニアの声は、まだまだ幼く、そしてそれが故に可愛らしかった。ニアの隣にやってきたフロムを見てみれば、僕に向かって『オブ!インにゆびわの説明をしてやってくれ!』と興奮気味に俺に向かってくる。

 

 あぁ、そういう事か。

 

『ニア?』

『うん、わたし。ニア。なんで知ってるの?』

『君のお兄ちゃんに聞いたから』

『わたしも知ってるよ。オブでしょ。おにいちゃんに聞いたの』

 

 何故か僕に張り合いながら、最後には得意気な様子を見せるニアに、これは確かに妹が可愛いと豪語するのも無理はないと思った。一人っ子の僕には全く想像できていなかったけれど、自分より小さくて自分を慕ってくれる相手というのは、どこか無条件で全てを許せそうな気さえしてくる。

 

『指輪の事が知りたいの?』

『そうなの。フロムが私とけっこんするときにくれるって言ってくれたけど、わたし、ゆびわ知らないから』

『わかった。じゃあ、ここに座って』

『うん!』

 

 そう言って元気よく座るニアに、僕は鞄から【きみとぼくのぼうけん】第3巻を取り出した。こんな事なら1巻を持ってきていれば良かった。指輪の絵なら3巻より1巻の方がとても大きく綺麗に描いてある。

 

『これが、指輪だよ。指にはめる輪っか』

『これぇ?』

『そう、これ。指輪には色々な種類があって、綺麗なキラキラした石がついてたりする』

『そうなの!』

『そう、ここにあるのは魔法の指輪。主人公がフクロウのファーとお話するのに使う魔法の指輪』

『すごい!』

『フロムがニアに渡すよって言ってる指輪も、一生一緒にいましょうっていう魔法がかかってる指輪だよ』

『わぁ!ゆびわってすごい!ほしいなぁ!』

 

 そう言って本の挿絵に目を奪われるニアに、僕は役目は終わったと顔を上げようとした。先ほどからフロムもインも黙ったままなのが妙に気になるのだ。

しかし、僕が顔を上げるのは叶わなかった。

 

『オブ!おはなしして!この本のおはなし!おにいちゃん達にしてるみたいにして!』

『えっ!?いや、今日は1巻持ってきてないし』

『して!して!して!して!おにいちゃん達ばっかりズルいズルい!』

 

 そう言って急にその大きな目に涙を浮かべ始めたニアに、僕はギクリとした。僕は自分よりも小さな子を相手にした事が余りない。こうして泣いてしまうぞ!という瞬間、僕は一体どうすれば良いのか分からないのだ。

 

 分からないので、思わず口に出していた。

 

 

『さぁ、今日も家族は眠りについた!ぼくの大嫌いな夜がまたこうしてやってきてしまった!』

 

 

 それは【きみとぼくのぼうけん】第1巻。一行目の言葉。

 “ぼく”の冒険の全ての始まりの一文だ。

 

 僕がとっさに暗記してしまっていたお話の一文を口にすると、目の前で泣きそうだったニアの顔が一気に明るくなった。もしかして、先ほどの涙は嘘だったのだろうか。いや、そんな器用な真似、こんな小さな子に出来る訳が……

 

 

『はじまった!すごいすごい!おはなしの時間ね!』

『…………』

 

 いや、もしかしたら、僕は“妹”という存在をとてつもなく見誤っているのかもしれない。僕はニアに促されるまま、頭の中で暗記していたお話を操られるようにペラペラと口にしていた。

 

 その間、黙りこくるインとフロム。

そして、昨日木から落ちたせいで地味に痛む背中を抱えたまま、僕はなんと物語の2巻まるまるをニアに話して聞かせるまで解放してもらえなかった。

 

 

 

 

      〇

 

 

 

 

『っはぁ、っはぁ』

『じゃーねー!オブ!また明日ねー!』

『えっ、あっ、うん。また明日』

 

 2巻分のお話を終えた時、僕は森を駆けまわった後のように肩で息をしていた。こんなに一気に本を声に出して読んだのは初めてだった。

 

 結局、ニアは3巻の話まで求めてきたが、最早僕も声に限界がきていたので『明日、またお話してあげるからね』と祈るような気持ちで頼み込んで解放してもらった。

 

 その間、ずっと黙りきりだったフロムはニアが納得したのを確認すると、何故か僕を睨みつけながらニアの手を引いて村の方へと帰って行った。何を怒っているのかは知らないが、お前がここにニアを連れてきたんだろうがと言ってやりたい。

 

『はぁっ、はぁぁ。あの、イン?』

『…………』

 

 そして、僕はやっと、やっと黙り込むインの方へと向き直る事が出来た。こうして同じ時間をインと同じ場所で過ごしておきながら、殆ど口をきかないなんて初めての事だ。

 

『イン?』

『…………』

 

 僕は俯くインにどうしたのかと心配になり、ソッとその顔を覗き込もうとした。その瞬間目に入ったのは、きつく握り締められたインの手と、小さく震える肩。もしかして、泣いているのだろうか。

 

 そう、僕が思ったと同時に、インの顔が勢いよく僕の方へと向けられた。急にしっかりと合わせられた視線に、僕は大いに戸惑ってしまう。

 

 何故って。そりゃあ、インの目が明らかに怒りと苛立ちに塗れていたからだ。

 

『オレだけのオブだったのに!オレが最初に仲良くなったのに!』

『は?』

『アイツら、特にニアなんて無理やりついて来たんだ!フロムだってそう!オブと最初に仲良くなったのがオレだってこと、すっかり忘れてる!ここはオレだけのお気に入りだったのに!もう!なんで、オブ!どうしてニアにあっち行けって言ってくれなかったの!?』

 

 インのその行動と言動の相反した矛盾に、僕は思わず呆けた声を上げてしまった。しかし、目の前には地団駄を踏みつつ、まだまだ言い足りないというインの姿。その姿に、僕は思わずあの日を鮮明に思い出していた。

 

 

——-オレが最初にオブと仲良くなったのに!最初はオレでしょ!?

 

 

 あぁ、インのヤキモチ再び、か。僕は理由が何か分かると、途端に心配だった気持ちが一気に霧散して、後に残ったのは何とも言えない優越感だけだった。

 いけない。気を抜くと笑ってしまいそうだ。

 

『オブのバカ!オレ以外邪魔だからどこかに行けって言ってよ!お前のワガママになって付き合わないぞって言ったら良かったのに!っはぁっ!っはぁ!オブのバカ!くそ!』

『そうだね』

 

 あぁ、きっと僕がそんな事を言ったらニアは泣いていただろう。そして、そんな事を言った僕を、インは僕を怒ったに違いないのに。

けれど、だからと言ってニアを優先して自分を構ってくれないのは嫌なんだ。

そう、インは僕の事が好きだから。インは僕の事が、こんなに怒るくらい、好きで好きで仕方がないんだ。

 

 

—–インは僕の事が大好きなんだ!

 

 

 やっぱり、僕は世界一幸せな人間だ。好きな人から、同じだけの好きを、こんなにまっすぐに貰えるなんて。僕の人生は、なんて素晴らしいんだろう。

 

『今日はたくさん仕事も頑張ったんだ!今日こそはお話の続きを読んでくれるって約束したから!なのに、なのに!ニアが、フロムが!』

『そうだね』

 

 もう、我慢出来そうにない。もう、こんなのダメだ。幸せ過ぎて、もう。

 

『っふ、っははは!そっか。そっか。ねぇ、イン。もう気は済んだ?』

『済まない!オレは怒ってるんだ!頑張ったのに!みんなして!もう!』

 

 笑いが止まらない。僕は、顔を真っ赤にして怒るインを前に、腹を抱えて笑ってしまった。この体制になると、昨日木から落ちた背中が痛むのだけど、そんな事言ってられない。それくらい、今の僕は愉快で、楽しくて、零れてくる笑いを止められなかったのだ。

 

『っははは!わかった、わかった。今日こそ続きを読むから。もしかしたら帰るのが遅くなるかもしれないけど、その時はお互い怒られようね?』

『……うん』

『さぁ、座って。イン』

『うん!』

 

 途端に目を輝かせてその場に座り込んだインに、僕は話過ぎてカラカラの喉を回復させるべく、ゴクリと唾液を飲み込んだ。インの為なら、この喉が枯れたって僕はお話を続けよう。

 

『さぁ、大人になる準備は整った!今日もぼくときみの冒険に出かけよう!』