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「おーい、バイ。遅くなってごめーん」
「…………」
「バイ?」
パウの乳の入ったカップを両手に、俺は寒い階段を上って部屋へと戻った。
戻った瞬間「遅い!」とプンプン怒られる事を想像していた俺は、余りにも予想外に静かなバイの様子に虚を突かれた。
「バイ、お前」
「…………」
そこにはキュッと体を縮こまらせるように膝を折り、壁に背中を付けて黙々と本を読むバイの姿があった。しかも、そんなバイの隣には俺の鞄が中身を乱暴に出された状態で横たわっている。
「おい!なに勝手に他人の鞄漁ってんだよ!」
「あーもう!うるさい!今良いトコなんだから話しかけんな!?」
そう言ってバイが真剣な顔で向かうその本は、今日アバブから「まだ借りていても良いですよ」と言って手渡されたビィエルの初級教本だった。
バイはその教本を穴が空く程の目力で真剣に見つめながら、ゆっくりと1頁、また1頁と読みを進めている。
今、中盤……いや後半に差し掛かった所と言ったところだろうか。
「……はぁ」
俺は仕方なく、手に持っていたパウの乳の入ったカップを持ったままバイの隣に同じように座ってみる。壁に背中をつけ、膝を折り横から教本を覗く。
ちょうどビッチウケの主人公が好きな青年相手の居る前で、他の男に抱きしめられている瞬間を、好きな青年に見られてしまう場面だ。
あぁ、これは確かに、寝転がって読みよりは背中が楽かもしれない。
「おい、ここ。パウの乳置いとくから飲め。あったまるぞ」
「うん」
バイは一切俺の方など見ずに返事をすると、真剣な眼差しで教本を見ている。
分かる。
ここは目が離せない場面だ。いつもは優しい青年が、ここでは『邪魔して悪いな』と冷たく背を向けてしまう。そんな青年にビッチウケの主人公は、慌てて追いかけるという場面。
「早く走れよ」
「…………」
一度読んだ筈なのに、思わず声に出してビッチウケの主人公を急かす。早く行かないと青年が、あの可愛らしい好敵手の男の子に出会ってしまう!
「そんなヤツと話てる場合じゃないだろうが!」
「…………」
なのに、走るビッチウケに先程までビッチウケを抱き締めていた男がビッチウケの手を掴む。
やめろ!お前に構っている暇なんてないんだ!
俺はソワソワしながら手に持っていた俺用のパウの乳を一口だけ飲んだ。
「ちゃんとお前の事は好きじゃないって言え!」
「……ああぁぁぁ!もう!ウルサ!?うるさいんですけど!?」
「だって!だってさぁ!?」
急に本から顔を上げて俺の方を見て来たバイに俺は拳を握りしめた。
だって、この場面はいつ見ても、こんな気持ちにさせられるのだから仕方がない。もどかしくてもどかしくて見ていられないのに、目が離せない。
あぁ!なんて矛盾した世界なんだ!
「わかる!わかるけどさ!?気持ちは分かるけど!ほんっと!静かにして!本気で俺読んでるからさ!?」
「俺もわかる!真剣に読んでるのわかる!ごめんな!思わず声が出るんだ!我慢する!」
「そうして!後で俺もイロイロ言うから!そん時にアウトの言いたい事も聞くから!」
「俺もその時バイの言う事も聞くよ!よし、今から静かに読もう!」
俺達二人は、二人して拳を握りしめ合い、コクリと頷き合う。
そう、分かるのだ。お互いの気持ちは痛い程わかる。だからこそ、ここはお互い譲歩し合わなければならないだろう。 こうして俺達二人はパウの乳を片手に、かぶりつくように教本を読んでいった。
この日、俺の部屋と残り一つの布団がバイの吐物にまみれる事はなかった。
ただ、この教本について二人で熱く語り合い、語り尽くした時には二人して折り重なるように眠りについていた。