————
——–
—-
『もー!だからフロムにおんぶしてもらえば良かったじゃん』
『きもちわるいよう』
『ニア、大丈夫か?帰りは俺がおんぶしような?な?な?』
『いやあ』
そう言って力なく首を振るニアに僕は、ひとまずニアの背をさすってやった。案の定、ニアはインの言うとおり、おぶされたまま走るインの体の揺れで酔ってしまっていた。
『まさか、おんぶで本当にここまで酔うなんてね』
『そうなんだよ。それなのに、おんぶ大好きなんだよな。変なんだよニアは』
そう、いつもはニアがインの背中に吐くまでが“おんぶ”の一連の流れらしいのだが、今回ばかりは僕がそれを許さなかった。
やっと少しずつ体力のついて来た僕は、駆ける二人について走りながら、ニアの様子をずっと伺っていたのだ。
するとどうだろう。
みるみるうちに顔色を悪くしていったニアに、僕は一瞬にしてこれは危険だな、とインを呼び止めすぐにニアを下ろさせた。
『ニア、気持ち悪いなら吐く前にインに言わなきゃ。僕が止めなかったら吐いてたんじゃない?』
『オブのばか。きらい』
『はぁ!?ニア!オブが居なかったらお前吐いてただろ!何言ってんだよ!ありがとうだろ!?』
『きらい、きらい!』
拗ねたように膝を折ってその場に座り込むニアに、僕はひとまずニアの背を撫で続けた。けれど、そんな僕の行為を許さないヤツが現れた。
もちろん、フロムだ。
フロムは『オブは嫌だってさ。ほら、代われよ』と得意気に僕の前に立つと、俺の手を止め自分がニアの背を撫で始めた。
一体何に対して勝ち誇った顔をしているんだ。僕はお前と、勝負などしていない。
『ごめん、オブ。オブは悪くないのに。ニアったらワガママなんだ。いっつもオレの背中に吐いてるから、オブが止めてくれて助かったよ』
『いや、別にいいよ』
——–ニアの気持ちは、よく分かるから。
とは、口には出さなかった。
気持ち悪さと、そして僕への苛立ちのせいで口をすぼめるニアが、やはり可愛いと思えたからだ。それに、僕がニアだったら、この気持ちを、他者を通じて本人に伝えられるなんて死んでも嫌だ。
『オブなんか、きらいよ』
『ニア!』
『イン、いいから』
ニアはどうしてもインに迷惑をかけたいのだ。
迷惑をかけた分だけ、インが、いや“おにいちゃん”が自分を構ってくれる。昔からきっとそうやって、ニアはインの視界の一番で居続けたのだろう。
インがどんな時も自分にかまってくれる事。ニアはその事実が嬉しくてたまらないのだ。
それなのに、それを僕が邪魔した。だから許せない。分かる、痛い程分かるその気持ち。
インにはいつだって自分だけを見ていて欲しい、その気持ちが、この僕に分からない訳ない。
『ニア?』
『きらい!』
僕は膝を折ってニアの顔を覗き込む。けれど、ニアはどうしても僕の事が許せないのか、蹲ったままフイと僕から顔を逸らした。
『ニア?インの背中で吐いたら、インは今着てる服を脱がなきゃいけなくなるよね?』
『しらないもん』
『今着てる服を脱がなきゃいけなくなったら、ニアだったどう?』
『そんなの、わたし、おねえさんじゃないから分からない』
『……分かってる筈だよ?体が汚れたら、きっとインは服と自分を洗うために、この寒い中、川に行くよね?そして、凍えたまま冬のお花畑に行ったらどうなるだろう。インは、また』
『…………』
そこまで僕が言うと、ニアはもう『しらない』とは言わなくなった。ただ、僕とは目を合わせようとしない。
『ニアが一番見てたんじゃない?インが苦しかった時のこと』
『…………』
『ニア?』
『……オブ、きらい』
『じゃあ、お兄ちゃんは?』
『…………すき』
『なら、ね?お兄ちゃんが元気でいないと、ニアはもうおんぶしてもらえないよ』
『そんなのいや!』
その瞬間、ニアの目がはっきりと僕を捉えた。僕はいつもインにするように、ニアの頭に手を置くと、よしよしと撫でてやった。しかし、その手はフロムから伸びて来た一回り大きな手によって、やんわりと遠ざけられる。
フロムのやつ、本当にいちいち面倒な奴だ。
僕は『よいしょ』とその場から立ち上がると、足元から小さな声で僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
『オブ。わたし、オブのきらいを戻してあげてもいいよ』
そう、いつの間にか機嫌を治した様子のニアが、その大きな目をクリクリとさせて僕を見上げていた。
どうやら、僕はニアに許しを乞う立場らしい。
嫌いを戻す。前言撤回してやっても良いという事だろうか。
『いいの?』
『一つ私のいうこときいてくれたら、きらいをすきにしてあげてもいいよ』
“すき”という言葉に露骨に反応して、とんでもない形相で此方を睨んでくるフロムに、僕は溜息を吐きそうになるのを、寸でのところころで堪えた。
僕の隣では何故かインまで焦ったように『ニア!いい加減にしろ!』と怒鳴り始めている。このまま放っておくと、ニアはまたインに叱られて泣くかもしれないし、フロムが何を言い出すかしれない。
僕は肩をすくめると、膝をついて座り再度ニアに目線を合わせてやった。
『さて、僕は一体、何をすれば許してもらえるのかな?』
『それはねぇ』
『ふふん』とニアは僕の後ろに立っているであろうインへと目を向けると、企むような笑みを浮かべた。
『お花畑で、おはなしの続き聞かせて』
『へ?』
『もう!ニア!ワガママもそこまでにしろよ!オブは喉が痛いんだよ!?』
そう、僕の隣に同じように座り込んでニアを嗜めに来たインに、ニアは『おにいちゃんのためなんだよ!』と、その小さな拳を握りしめた。
『おにいちゃんが、オブにわがまま言えないからわたしが、こどもとして代わりに言ってあげてるんだよ?』
『ニア!』
ニアの言葉に僕は思わず目を瞬かせながら、隣に座るインを見た。必死にニアを嗜めているようだが、じょじょにその耳は赤く色付き始めている。
『おにいちゃん、オブのおはなし聞きたいなあって毎日よるねるまえに言うんだよ?つぎはどうなるのかなぁって。こうなるんじゃないか。いや、こうかもって。ずーっと、わたしと二人で考えるの。オブの声はいつなおるかなあ、だいじょうぶかなあって。毎日いうの。わたし、もうききあきちゃった!』
『ニア!もう!内緒って言っただろう!?どうして約束守れないんだよ!』
『おにいちゃんったら、わがままへただから、わたしが、オブに代わりに言ってあげてるの。えらい?』
『もう!』
えらい?
そう、本気の顔でインに笑顔を向けるニアの可愛さといったら。
こんなの、フロムでなくとも、ニアを好きな者は多いだろう。フロムはニアの笑顔にその表情をユルユルと崩すと『ニアは偉いなぁ』と、これでもかという程ニアの頭を撫で始めた。
けれど。
『フロム!何言ってんだよ!全然偉くないよ!もう、もう!』
ただ、僕にとってみたらニアはどうやっても“その他の可愛い子”だ。僕の世界には、インかその他、この2つしか存在しない。
ニアは本当に頭の良い子だ。
こんな、顔を真っ赤にして慌てるインの姿を前に、どうして僕が自分の喉の事など気にする事ができるだろうか。
『イン?』
『……オブ、違うよ。これはニアが嘘を言ってるだけ!』
『わたし、うそついてない!毎日寝る前に言うじゃない!オブ、今日も声、出しにくそうだったねって!おはなしはいつ聞けるのかなって!』
『ニア!』
インは確かに僕にだけ、小さな子のように感情を爆発させてくる時もある。
けれど、インはどこまで行っても優しい。だからこそ、ここぞという時の本当の気持ちは、こうして隠してしまう。特に、相手の事を思いやる時なんかは、自分の気持ちは当たり前のように二の次にしてしまうところがある。
それは、やっぱりインが“おにいちゃん”だからだろうか。
我慢が、普通になってしまっているのだろうか。いや、我慢をしているつもりは、インには余りないのだろう。
きっと、ニアの言葉を借りた表現が一番しっくりくる。
——-インは、我儘が下手だな。
インが望むなら、僕はそれを何だって叶えたいと思うのに。いや、むしろ叶えさせて欲しいと、僕の方から願い乞いたい程なのに。
そんな僕の気持ちなんてまるで知らずに、他の子と同じように一緒にお話しを待っていなきゃいけないと思っているインが、いじらしくてたまらない。
『イン?お花畑についたら、今日は本を持って来てないけど、覚えてるから続きを聞いてくれる?』
『……ダメだよ。オブは喉が痛いんだ』
『イン?』
隣からニアの視線を感じる。あぁ、ニア。君は本当に頭がいいよ。
君はただ自分がお話の続きを聞きたいだけなのに、こうして僕が自分からお話をするように仕向けてきたね。