『そうか、それなら……』
顔を赤くして僕から目を逸らしつつ、チラチラとこちらを伺うインの姿に僕はソッと自身の喉に触れた。
声が出しにくいだけで、特段痛くも痒くもないこの喉。ただ、少しだけかすれて聞きづらいかもしれないソレで、インを満足させてあげられるか不安だ。
『イン?第4巻にはね、新しい登場人物が増えるよ?』
『ど、どんな?』
僕の言葉に、ニアと、そしてフロムの視線までもが強くなる。そう、4巻からはまだ誰にも読んであげていない、本当に皆が知らない話だ。
耳を赤くして、照れて、必死に我慢していたインのお兄ちゃんのような“我慢”が、スルスルと解けていく。
その後に残るのは純粋な好奇心による興奮。その顔に、僕の中に僅かだけあった不安も、共に解けていった。
『オブ、新しい登場人物って……!?』
そこには僕の一番最初に大切の奥深くに仕舞い込んだ、あのインの顔が浮かんでいる。
『3巻の最後。大人の国で“こども”だってバレて追いかけられた主人公の手を引いて、一緒に逃げてくれた大人が居たでしょう?』
『うん、うん。子供は入っちゃダメだって、酒場で捕まりそうになって。でも。ファーも居なくてどうしたんだろうってずっと思ってたんだ』
——-キラキラしてて丸いなんて、それもしかして月?
そう、あの日、酷い事ばかり言う僕に、それでもキラキラした綺麗な目を向けてくれた。僕の一番大切の深い所に隠してある、インの中でも一番大切な表情。
『あの男の人は主人公と同じで、大人の薬を飲んで大人になった、実は子供だったんだ。さて、どうする?ここでお話を始めようか?その大人に化けていたっていうのが―』
『えええ!まって!まって!ここで言わないで!そんな風に説明みたいにして言うんじゃなくって、オブ!ちゃんとお話しして!』
そう、そうだよ。イン。
僕にだけは何の我慢もせずに、その内にある気持ち全てを吐きだして欲しい。それを僕は全部、余すところなく僕の中へと仕舞うから。
返してって言われても返してあげない。君の全ては全部、僕の所へ帰るんだ。
『さて、それじゃあ。お花畑に行こうか?』
『いくー!わたし、早くはしれるよ!』
そう言って僕が立ち上がるか立ち上がらないかのうちに、先程まで小さく座り込んでいたニアがぴょこりと立ち会がると、一目散に駆け出した。その後を『ちょっ!ニア!』と慌てた様子で追いかけるフロム。
なんだ、ニアもけっこう足が速いんじゃないか。
そう、僕がニアとフロムの背を見送っている時だ。隣からか細い声で、インの声が聞こえてきた。
『オブ……ごめん。オレ、我慢、できなかった。オブ、声でないのに』
『イン、謝らないで』
『でも、でも、声が』
インの好奇心と僕への思いやりがせめぎ合って、インは少しだけ苦しそうな顔をしている。僕はどんなインでも大切だけど、今見たいのはこの顔ではない。
『それなら、イン。僕のお願いも聞いてくれる?』
『なに何でも言って!オレ、オブの為なら何でもするよ!』
『っ!』
パッと明るくなったインの表情に、僕は小さく息を呑んだ。
あぁ、もう。不安になるじゃないか。こんな顔、こんな言葉、僕以外にもペラペラ言ってやしないかと心配になったのだ。
インは多少ぼんやりしたところがあるし、純粋過ぎるところがあるので、悪い人間が良い人の仮面をかぶって現れたとしても、きっとホイホイこんな風について行ってしまいそうだ。
『そうだな……、そしたら』
あぁ、ダメだ。違う。
インが向かっていく先に居るのが例え本当に良い人間だろうと、向かう先に居るのが僕でないという所が問題だ。僕以外の人間に、こんな顔を見せていたら、きっと僕は頭がおかしくなってしまうだろう。
『明日、あの秘密の場所で、二人だけで会う日にしない?』
『明日?』
『そう、明日』
僕はインが、僕ではない誰かの元へあのキラキラした目を携えて走っていくのを想像して思わず身震いする。
そして、その身震いと共に吐きだされた、インの罪悪感を拭う為だけに口にする筈だった“嘘のお願い”がいつの間にか“心からの欲望”に代っている事に気付いた。
なんてことだろう。これではまるで、僕自身が良い人の仮面をかぶった悪い人間じゃないか!あぁ、僕はなんて汚いんだ!
『オブったらおっかしいの!』
『へ』
しかし、僕の汚い欲望の乗った“お願い”にインはケラケラと笑い始めた。そして、いつの間にかインは僕の手を握ったかと思うと、共に走り出しながら、言った。
『オレ、いっつもオブとは二人っきりで会いたいって思ってるのに!それ、オレのお願いじゃん!』
やったー!なんて、嬉しそうに走り出すインに、僕は思わずもつれそうになる足を必死に動かして深く息を吸い込んだ。
『おっ、オブ?』
そして次の瞬間、僕は思い切り足を動かして、インの前へと駆け出す。そのせいで、今や僕がインを引っ張り走るような状態になっているのだが、それはとてつもなく好都合だ。
今の僕の顔は、インには見られたくない。きっと、今僕はとてつもなく変な顔をしてしまっているに違いないから。
『うおおおおお』
『えっ!えっ!?どうしたの!オブ!?』
僕の背からインの戸惑う声が聞こえる。けれど、僕は今この瞬間の衝動を、どうにかして発散しなければ頭がどうにかなってしまいそうだったのだ。
『うおおお』なんて、こんな大声、生まれて初めて発した。発した最中、僕の声はかすれ上手く発生する事が出来ない。
あぁ、忌々しいこの声め。しかし、声が出なくとも、僕は叫び続ける。森を走り抜けながら、僕は声の限界まで叫び続けた。