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「あれ?今日は俺だけ?」
「そのようだな」
俺はいつものように仕事帰りにウィズの店に向かうと、なんと今日の客は俺一人だった。
いや、まぁ、つい最近までは客なんて、ほぼ俺だけのようなものだったのだが、人の意識などほんの数日でコロリと変わってしまうものである。
「昨日は、お前の弟がトウと一緒に来たぞ」
「へえ!アボードが?アイツ2日連続でここに来るなんて、この店の事、だいぶ気に入ったみたいだな!大丈夫だったか?暴力を振るわれたらすぐに自警団に連絡しろよ?」
「ふふっ。彼は騎士だろう。それに、彼はトウと二人ならば、だいぶ静かに飲むタイプのようだな」
「えぇ!?嘘!信じられん!」
「こないだうるさかったのは、アウトと、あの赤髪の……」
「バイ?」
「そう。お前ら2人が一番騒がしかった」
「……ふうむ。それは、否定はしない」
俺は軽口を叩きながら、いつものようにカウンター席に鞄を置くと、ウィズと交代するようにカウンターの内側に入った。
「……さて、と」
今日はどの酒を頂こうか。
最早、自分で酒を準備するのも、俺にとっては一つの楽しみだ。今ではグラスの場所も、酒の場所も、霜氷も、赤樽も、どこに何があるかなんて目を瞑っていても分かる。
「アボードと言ったか?お前の幼い頃の話を色々と話してくれた」
「はぁ!?あいつ、ホントあり得ないんだけど!?ウィズ!アボードから何を聞いた!?」
まずは、これにしようか。俺は左上の最上段にある酒に向かって手を伸ばしながら、ウィズに勢いよく問うた。
アイツ、一体ウィズに何を吹き込んだというんだ!
「そうだな。アウトが幼い頃、自分は飛べるんだと言い張って木の上から飛び降りた挙句、アボードが助け走って、そのせいで肋骨を4本折った話とか」
「やっぱり!言うと思った!」
「しかも、同じ事が2度あったと。そして2度目は腕の骨折も加わったとか」
「言うと思ったー!」
俺は「あちゃあ」と右手で頭を抱えると、カウンターに座ってアボードから聞いたという俺の幼い頃の話を、いつもの川の流れのような静かな口調でつらつらと述べていく。
ウィズの低い、聞き心地の良い声のせいで勘違いしそうになるが、中身は俺の、とんでもない話ばかりで顔から火が出そうだ。
「いい、もういいから。ウィズ」
「ん?もういいのか?まだまだ俺はたくさんお前の話を聞いたが?」
「もう勘弁してください!」
ウィズの、そのどこか面白がるような声色に、俺は顔が熱くなるのを感じながら、手に取った花の絵の描かれた美しいラベルの酒をカウンターに置いた。
昨日、バイから北部の“冬の少女”の花について聞いたので、今日の俺は花っぽい気分なのだ。
「ほう、その酒を選んだか」
「そう、なんかラベルに花がついてて気に入ったから」
「それは昨日入荷したばかりの、北部の酒だ」
「通りで見慣れないと思った!これはどうやって飲むのがおすすめ?」
最近、なにかと北部に縁があるな。
俺は昨日のバイの言葉を思い出しながら、花の絵の描かれたラベルをよく観察する。今日あまり酔っぱらわずに帰宅できたならば、家でこの酒瓶のラベルの絵を描いてみよう。
「現地では割材を使うのは邪道とされているが……」
「へぇ、ならロックか?」
「いや、この酒はラベルに騙されて飲むと、かなり刺激が強い。初めての一杯ならば、ルビー飲料で割って塩を少々入れるのが良いだろう」
「ルビー飲料?子供の飲むやつ?」
「バカにするな。これがかなり合うんだ。それに、最初の一杯は度数の低いものが良い」
ウィズは自身の手元にあったグラスをクイと一気に飲み終えると、当たり前のようにグラスを俺の前へと差し出して来た。俺はそれを当たり前のように受け取り、手早くグラスを洗う。
では、ウィズの言った作り方で北部の酒を味わおうではないか。
「悪酔いするのを防ぐ為だろ?俺はちゃんと覚えてるよ!メモは取ってないけどな!」
「……そ、そうだ。どうした、急に」
あれ?想像の中のウィズは「よく分かってるじゃないか」と言ってくれたのだが、ホンモノは違った。若干戸惑っているようにも見える。
ちぇっ。褒めてくれると思ったのに。
俺は軽く落胆しつつグラスに霜氷を数個ずつ入れていった。
「酒とルビー飲料は4対5といったところか」
「了解」
一昨日来た時は、これでもかという程賑やかだった店内も今は本当に静かだ。カラカラと霜氷が互いに触れ合う音、トクトクと酒を注ぐ音、そしていつもの店内の弦楽器の音だけが、今俺達を包む音だ。
「アウトは、良い弟を持ったな」
「アボード?それ本気で言ってる?」
急にウィズの口から放たれた予想外過ぎる言葉に、俺は正気かと手元から顔を上げてウィズを見る。
そこには、少しだけ気だるげな様子で肩肘をカウンターにつけて、こちらを眺めるウィズの姿があった。
あぁ、やっぱり絵になる程美しい。アズも俺なんかではなく、こういった“美しい”対象をモデルにすればいいのに。
「彼は、お前の子供の頃の話を俺やトウに聞かせる事で、釘を刺したかったのだろう」
「釘?」
「お前が“イン”ではないんだ、と。彼はアウトの昔話をする事で、俺達に伝えに来てくれたのさ」
ウィズのその言葉に、俺は手に持っていた酒の瓶を握る手に、少しだけ力を入れた。確かに、以前もアボードはトウに伝えてくれていた。
———コイツは確かにガキの頃から、本当にただのガキだった。今でこそこうして大人みたいなナリしてるけど、本当に子供の頃はただのガキだったんだぞ。
———お前が傷つくのは自己責任としても、だ。コイツがお前のせいで傷つくのはあっちゃいけねぇ。それは、分かるよな?
「……アボード」
俺は俺のたった一人の弟を思い、静かに酒をグラスに注いだ。
喧嘩も沢山してきた。暴力もたくさん振るわれてきた。けれど、“あの家”の中で、俺がこうしてしっかり大人まで育つ事が出来たのは、やっぱりアボードが居てくれたからだ。
「そして、これは彼の名誉の為に一応伝えておくが、アボードはお前に関する事で、お前が本当に言ってほしくないと思っている事は口にはしていない」
「……ウィズ、何が言いたいんだ?」
しっかりと俺の目を見据えて静かに口を開くウィズに、俺は手元で出来上がった酒をウィズの方へと滑らせる。ルビー飲料のお陰で、酒の色は全体的に濃い橙色だ。
「嫌なら答えなくて良い。そして今はこれ以上は聞かない」
「だから、どうしたんだよ。ウィズ」
ウィズの真剣な言葉に、俺は何故か心臓が嫌な音を立てるのを体全体で感じた。
これは、まるで洞窟の中に一人で取り残されたような、あの感覚に似ている。