99:洞窟を抜けた先

 

 

「教会は、ビヨンド教は、嫌いか?」

「嫌い、大嫌い」

 

 

 ウィズの問いに、俺は間髪いれずに答えていた。

 口について出た瞬間、ウィズがその涼し気な表情を微かに曇らせるのを見た。

 

 あぁ、そうだった。ウィズは神官で、教会図書館の担当をしているのだった。

 

「俺、ウィズは好きだ。けど、どうしても……教会はダメなんだ。俺。だって、アイツらおれに」

「……悪かった、アウト。もういい」

 

 ウィズが初めて見る顔で俺の事を見ている。ただ、俺は止められているにも関わらず、口が勝手に動くのだ。自分がこれから何を言おうとしているのか、俺にも分からない。

 

 だって、ここは真っ暗じゃないか。何も見えないじゃないか。

 

「あいつら、おれに、ひどいことをした」

「アウト、アウト。もういい。もういいんだ」

「おかあさんが、連れて行った。手をつないで、おれを、ぼくを、つれていって」

 

 あぁ、そう、そうだ。ここは洞窟じゃない。

 

 俺は手を引かれて歩いた。嬉しそうなお母さんに、手を引かれて。だから、俺は嬉しくてたまらなかった。

 

 ここは洞窟じゃない。洞窟なんかじゃない、皇国の街。教会へと続く、賑やかで、明るくて、楽し気な街。

 

 今とは違い“あの日”は暑い、暑い夏だった。

 

 汗が噴き出す程暑くて。だけど、握ってくれるお母さんの手は暑くてもずっと握っていたかった。嬉しかったから。

 

 お母さんが笑ってくれているのが。俺は本当に、本当に嬉しかったのに。

 

「それなのに、教会に行った帰りには、」

「アウト!」

 

 急にウィズの大声が俺の耳奥まで響いてくる。

 ウィズのこんな大声は、あぁ、初めて聞くな。低くて静かな印象しかない、ウィズの大声。

 

 俺は暑い夏の皇国と、寒い冬の皇国を、どちらともなくフラフラしているような奇妙な感覚だった。

 

「もう、お母さんは手をつないでくれなかった」

「っ!」

 

 今は、寒いのか暑いのか、果たしてどちらなのだろう。そう、俺が頭の片隅でぼんやりとそんな事を考えた。

 

「……ウィズ?」

 

 考えたと同時に、俺の手が暖かい何かで包まれた。あぁ、この暖かい手は、この手は。

 

「アウト。悪かった、もういい。もういいから」

「…………」

 

 ウィズの手は俺よりも大きい。その大きな手で握られた俺の手は、いつの間にか勢いよく引っ張られ、今や体全体がウィズの腕の中へと納まっていた。

 

 

「アウト。悪かった。怖い事を思い出させたな。俺はお前が怖い思いをするのを、多分、分かっていた筈なのに、聞かずにはいれなかった。俺の心の欲望に耐え切れなかった。許しを乞わせてくれ。俺はお前の為に何でもしよう」

「…………」

 

 ウィズの言葉はいつものようで、いつものようでは全くなかった。どうすれば良いのか分からない子供のように、その言葉にはどうしようもない焦りと怯えが窺える。

 

 あぁ、何か口に出さなければ。そう思うのに、何を言ってよいのか分からない。

 

 ここは寒い冬の皇国。けれど、今はウィズの腕の中に居るから、温かい。

 

「アウト、ごめん。悪かった。俺が愚かだった。こうなると分かっていたのに、アウトの口から聞かねばならないと思った。間違った。いつも、俺は間違いを犯す。自分の存在がたまらなく汚くて嫌になる」

 

 俺を抱き締めるウィズの腕が微かに震えている。何か、何かを話さなければ。俺は必死で頭を動かした。

 

 ウィズが俺のせいで、辛そうなのは一番嫌だ。苦しそうなのも許せない。だって、俺は、ウィズの“幸福”を願うと誓ったのだから。そんな俺がウィズの幸福を妨げるなんて、あってはならない。

 

 なんでもいい、なんでもいいから。

 喋るんだ!

 

「……俺、昨日バイと俺の家で、一緒に酒を飲もうって集まったんだ」

「……アウト?」

「バイがさ、あんなに酒が弱い癖に、ゼツラン酒の最高級酒ポルフペトラエアを用意して持ってきたんだよ」

「そうか」

 

 俺の言葉に、ウィズが俺を抱き締めたまま頭を撫でる。その手は優しくて、思わず気持ち良すぎて眠くなりそうな程だった。

 

「俺さ、ちゃんとウィズが悪酔いしない方法を教えてくれたの、覚えてたから。急に酒を飲むんじゃなくて、ちゃんとパウの乳を温めたやつを、バイと二人で飲んだんだ」

「……あぁ、分かってるじゃないか。アウト」

「へへ」

 

 あぁ、やっぱりウィズは俺の中のウィズと同じように褒めてくれた。

 嬉しい。これはとても嬉しい事だ。

 

「けど、二人でビッチウケの教本を読んでたら、夢中になってさ。結局酒は飲めなかったんだ」

「ビッチ受けの本?お前らは一体どうしてそんな本を読む事になったんだ。一体どこで手に入れた?」

「あれ?ウィズビッチウケって何か知ってるのか?ウィズも“ふじょし”なのか?神官は“ビィエル”の研究もする?」

 

 ここまで来て、やっとウィズは震えていた体を落ち着かせたようで、俺を腕の中から解放した。

 離れがたいと思うのは、この酒場の暖かさが、少し物足りないからだろうか。

 

それとも。

 

 

「アウト、一昨日もそうだったが。お前は言葉の意味をきちんと理解していない癖に使うのは、いかがなものかと思うぞ」

「あれ?俺、また間違って使ってる?」

「まったく、本当に、お前ってやつは」

 

 そう、フッと笑ってくれたウィズの姿に、俺は体全体がフワリと浮き上がるような感覚に陥った。

 

 嫌なこと、辛いこと、怖いこと、悲しいこと。

 それらを洞窟の真っ暗の中に隠しているから怖かっただけで、きっと、それは“見えた”方が怖くない。辛いのは無くならないけれど、怖いのは無くなる。

 

 

 そろそろ、見えない所に隠すのは、もう止めにしよう。

 

 

「その話は、酒を飲みながら聞こう。その前に、俺はアウトに許しを乞う為に何でもすると言った。さぁ、アウト。俺に望みを言うんだ」

 

 そう、俺の肩に手を置きながら、ジッと見下ろしてくる美しい顔に、俺は思わず息を呑んだ。息を呑むほど美しい顔、というのをこんなにも間近で拝める事だけでも、俺は十分に生きていて得をしていると思う。

 

「俺、ウィズの何を許すのかも分かってないんだけど」

「怖い思いをさせた。俺はお前からの罰を望む」

「っはは、なんだそれ。もう、怖いのはさ……さっき無くなったんだよ。もう、俺は大丈夫だ。だから」

「その事はもう良い。言うな。……あぁ、罰という言い方に抵抗があるなら、やはり望みだ。アウト、俺に対する望みを言え。俺の応えられるものは全身全霊をかけて成す」

 

 

——望みを言え。

 そう、力強い目で言われる言葉は、最早許しを乞う立場の人間の態度ではなかった。最早、一国の主が強制するような望みの所望に、俺はもう笑わずにはおれなかった。

 

 ウィズの、あぁ、違う。月のような美しい男の、傲慢な王様のような望み。

 

「っははは!もう!分かったよ。ウィズ、王様みたいな顔して……!もう、命令じゃないか!おっかしいな!月の国の王様か何かみたいだ!」

「……っ!そ、そうか?」

「分かった。何でも言う事を聞いてくれるんだよな?だったら聞いてくれ」

「ああ、何でも言ってくれ。どんな事でも叶えてみせる」

 

 最早、食い気味に顔を近づけてくるウィズに、俺は苦笑するしかなかった。こんなウィズの顔は初めてみる。俺は、ウィズを器用な男だと思っていたが、そんなの全然違った。

 

 俺は、こんな不器用な男を、他に見た事がない!

 まるで友達の居ない王様が、初めて接する友人に、どう接してよいのか分からず戸惑っているかのようではないか!

 

「週末、窓掛買うだけじゃなくて、朝から1日中一緒に居ないか?」

「1日中」

「そう、1日中」

 

 俺はポカンとした表情で此方を見下ろしてくるウィズに、もう愉快が突き抜けて笑ってしまいそうだった。

 

 そして、その愉快さと共に吐きだされた、ウィズの謎の罪悪感を拭う為だけに口にする筈だった“嘘の願い”がいつの間にか“心からの欲望”に代っている事に気付いた。

 

 なんて事だ!俺はウィズの罪悪感を利用してとんでもない我儘を口にしてしまった!俺ってなんて、ガキなんだろう!

 

「アウト、それではダメだ」

「へ」

 

 しかし、俺の完全なる欲望の乗った“願い”にウィズは心底戸惑ったような表情を浮かべた。

 あれ?1日はさすがに何か別に予定でも入っていたのだろうか。

 

 そう、俺が少しだけ落胆した時だった。

 

「俺は元々その予定で考えていた。なので、それでは望みを叶えた事にならない。いや、そんな事より、まさか、お前がそうは思っていなかったとは……」

 

 逆にそんな事を言って俺以上に落ち込むウィズの姿に、俺の笑いのツボは一気に連打されてしまった。

 

「ぶはっ!もう本当にウィズ……俺、もう本当に!あはははっ!」

「アウト?」

「はははっ!もう、ほんと、ウィズが俺、もうっ」

「……俺は、そんなにおかしな事を言ったか?」

 

 笑う俺に、ウィズが真面目な顔でそんな質問を飛ばしてくるものだから、俺はどうしようないくらい笑いの渦に飲まれてしまった。

 

 あぁ、好きだ。好きだよ。ウィズ。俺はやっぱりお前の幸福を望む。

俺は、この世で一番ウィズの幸福を望む人でありたいと思うよ。

 

 俺はひとしきり笑い終えると、息も絶え絶え、笑い過ぎて溢れる涙をぬぐいながら、言った。

 

 

「俺。いつか、ウィズの働いてるとこ見に行こうかな!」

「……!」

 

 

 君の居る場所なら、俺は笑って向かえそうだ。