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『さぁ、きょうもかぞ、くはねむ、りについた!ぼくのだい、きらいなよ、るがまたこうしてやってきてしまった。ぼくは、まっくらな、へやの、な、か。ふとんをかぶ、って』
僕に【きみとぼくの冒険】の第1巻を貸して、と言ったニア。
ニアはあの日から、普段の我儘とお転婆を見事に封印して、必死に1巻の物語を読み続けている。その集中力は凄まじく、まだ本を貸して数日しか経っていないのに、ニアはゆっくりだが本を朗読できるまでになっていた。
その成長速度の物覚えの速さは、どうやらインを遥かに上回っていたらしい。
『うー!どうしてニアよりオレの方が年上なのに、覚えるのはオレの方が遅いの!?』
『……どうしてだろうねぇ』
僕は、喉まで出かかった『インよりもニアの方が賢いからだろうね』という、圧倒的にインを怒らせてしまうであろう言葉を必死に飲み下した。
そう、そもそもニアの方がインよりも圧倒的に頭が良いのだ。
それは末っ子特有のズル賢さもそうだが、純粋に頭の回転も、理解力もニアの方が上。ただ、それだけの事だ。
『すると、まどの、そとから、こつこつとなにかがまどに、ぶつかるようなおとがしました』
しかも、その賢さに対し、ニアには現在、明確な目標がある。
それこそが、ニアをここまで成長させた最も大きな理由だろう。
——-いつか!わたしもおかあさんになって、わたしのこどもに、このおはなしを読んであげるの!
そう、僕がこの【きみとぼくの冒険】の作者の女性の話をした、あの日からニアは完全に変わった。
完全に変わったと言っても、見た目が急に変わったり、性格が大幅に変わった訳ではない。ただ、口では説明し辛いが、彼女は確かに一歩大人への階段を上ったようなのだ。
それに対し、僕の隣で口を尖らせるインは、圧倒的にその場で止まったまま。一気に兄と妹の立ち位置が逆転して、悔しいのだろう。その、悔し気に口を尖らせるインの姿に僕は安心もするが、逆に不安になる。
それ程までに、インはまだまだ子供っぽかった。
そして、ニアの変化に伴い、フロムも少しだけ変わった。
『ニアがお母さんになる準備をするなら、俺だって親父になる準備がいるよな!だって俺達は将来結婚するんだから!ニアの子供はもちろん俺の子供!』
そう言うと、フロムはこれまで以上に家の仕事に精を出すようになった。そのせいで、僕達と森で駆け回る機会も少しだけ減ったのだ。
ともかくニアと、いつか生まれる子供に何不自由ない生活をさせるんだと、フロムは早々に意気込んでいる。気の早いものだと、俺は他人事だから思えるが、まぁ、気持ちは分からなくもない。
それもこれも、全てニアの一言がきっかけだ。僕のあの話がニアを変えたように。ニアはフロムを変えたのだ。
——-フロム。私がおかあさんになるときは、もちろんフロムはおとうさんよ!ね!そうでしょ?
それはきっと初めてニアからフロムに伝えられた“結婚”、いや“家族”の約束だったに違いない。いつもはフロムからの一歩通行のようにも見えた想いの丈が、あの瞬間双方向性のあるものに変わったのだ。
愛を十二分に享受するだけだったニアは、いつか自身に訪れる“最愛”を意識する事により少しだけ大人になった。
そして、フロムは自身の送っていた最愛が、きちんと投げ返された事により、安心を得た。そしてその安心はフロムの心に余裕として、表に現れてきたのだろう。
あの、突発的で直情型な性格だったフロムが、今や少しだけ落ち着いたのが良い証拠だ。
『ぼく、は。そのふぁーとなのる、フクロウからまほうの、ゆびわを、うけとると、いっきにまどの、そとへ、とびだ、した』
僕達はいつまでも子供のままではいられない。変わらない毎日の中、こうして少しずつ大人に近づいていくのだ。それが僕には楽しみでもあり、そして不安にもなる。
『オブ、ニアばっかり先に覚えたらいやだから、あとでこっそりオレにだけ、文字おしえて』
そう、僕の耳にヒソヒソと囁くように言うインの姿に、僕は胸に沸いて来た不安が少しだけ和らぐのを感じた。
あんなに大人になりたいと願っていた筈なのに。あんなに子供は不自由だと思っていた筈なのに。どうしてだろう。今は、まだもう少し此処に居たくてたまらない。
『ふふ、いいよ。あとで二人で“いつもの場所”に行こう』
『うんっ!』
時は誰も平等に過ぎていく。絶対に止まったりしない。
だけど、もう少し。あと少しだけ、僕は此処に居たい。
寒かった冬が、明けようとしている。