100:知らない衝動

◆◇◆◇

 

 

ぼくの手を引いて走る大人が、おとなの国を飛び出した瞬間パッっと光に包まれてその姿が変わった。

けれど、それはぼくもおなじだ。薬でおとなになっていた姿が、いつもの子供のぼくへと戻っていた。

 

『きみは、だれ?』

 

ぼくは、ぼくと同じくらいの年の男の子に尋ねた。その男の子はキラキラと光る金色の髪で、目の中にも何かキラキラと光る何かが見えた。

 

『おれは、月の国から来た。きみは?』

『ぼく?ぼくは、えっと。ビニーズ通り3ばんち、45ごう。青い屋根の家のみぎはしのこどもべやから来た』

 

月の国から来たという少年はぼくのことばに不思議そうに首をかしげた。ぼくの説明が分かりずらかっただろうか。それにしても、この男の子は月から来たと言った。月とはこの空に見える月の事だろうか。

 

『月?月って今も上にあるあの月?』

『そう。あの月。おれは月の国の王子なんだ』

『王子さまなの!すごいね』

『べつにすごくない。みぎはしのこども部屋はきみの国だろう?だったらきみも、王子様じゃないか』

 

月の王子様の言葉にぼくはどうだろうかと首をかしげた。けれど、王子様はぼくの返事なんて聞きもせずに、ぼくの手を引いた。

 

『おなじだよ。さぁ、おれと遊びにいこう。同い年くらいの子と話すのは、はじめてだ』

『まって!』

『どうして?あそばないの?』

 

ファーが居ないので、ぼくは今とても不安だ。ぼくの旅にはいつだってファーがいたのに。お店の外で待っててって言って、ぼくだけ逃げてきてしまった。

 

『どうしたの?』

『ファーを置いてきちゃった。ともだちなんだ。ここにぼくが居ることをつたえないと』

『ファー?ともだち?』

『そうなの』

 

ぼくが頷くと、月の王子様はにこりと笑った。

 

『それなら、流れ星をつかってファーに

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

手紙をとどけよう!』

 

 

 僕はガラつく自分の声に苛立ちを覚えながら、インに【きみとぼくのぼうけん】第4巻を広げて見せた。

 

 今日は僕のお願いを聞いてもらう為に、インと二人きりで二人だけの秘密の場所に居る。

 秘密の場所。ここは正真正銘、インと僕しか知らない二人だけの秘密基地だ。

 

 ここは森の一番奥。奥の奥にある大木の根元にある、大きな穴の中だ。

 そこは僕達二人が入ってもゆうに余裕があり、隠れるのにももっていこいの場所だった。

 

『流れ星のてがみ!きれいだなぁっ!』

『ね、言ったでしょ?』

『うん!すごい!キラキラの光で手紙を届けるなんて!すごい!』

 

 上手く声の出ない自分に苛立ちながらも、隣には流れ星以上にキラキラしたインの顔があるから、なんとか僕は落ち着いてるフリが出来ている。

 

 隣にインが居なければ、きっと僕はもどかしくて【きみとぼくのぼうけん】放り投げてしまっていたに違いない。

 

 その位、僕の今の声は酷くなっていた。

 あぁ、昨日、あまり興奮して叫んでしまったのがいけなかった。あれから僕の声はとんでもなく聞き苦しいモノになったのだから。

 

『ご、ごめん。イン。聞き取りずらいだろ』

『そんな事ないよ!オブ、お話いつもみたいに上手だよ!』

『……うそ。気を遣わなくったっていいよ』

 

 僕は自分の喉に手を当てながらインに謝った。あの頃みたいに、元気にハキハキ物語が読めていた頃の自分に、早く戻りたい。

 

 

『いやだなぁ、こんな声』

『オブ……』

 

 すぐ傍には川も流れており、いつも川の流れる音が聞こえる。それに、空間になっている割に、木の隙間から光も入ってくるので、火のランプがあるように明るい。

 

 誰も知らない。誰も見つからない。僕とインだけの場所。

 その場所で、僕は川の音、木の中に入り込む光を眺めながらぼんやりと自分の声に悪態をついた。

 

『オブ、今日はお話はここまでにしよう?』

『ごめん』

『ううん!僕はこのキラキラの星と、月の王子様が見れたから十分!』

 

 このお話は、既に昨日僕がお花畑でフロムとニア、そしてインの3人に話して聞かせたものだ。

 

 けれど、この4巻の中盤。

 月の王子様と流れ星の手紙の話は、絵がとても綺麗なお話なので、どうしてもインに見せたくてもう一度本と一緒にインに読み聞かせているのだ。

 

 なのに、なのに!

 

『ごめん』

 

 インの我儘は全部僕が貰い受けると決めたばかりなのに、すぐにそれが実行できなくなってしまった。

 

 あぁ、もう!もどかしくてもどかしくて堪らない!

 

『ねぇ、オブ?本当のこと言っていい?』

『なに?』

 

 インが元々二人しか居ない場所なのに、誰かに聞かれないようにコソと僕の耳元に囁いた。どうやら二人だけの場所で、更に内緒の話があるらしい。

 これは何があってもしっかり聞き逃さないようにしなければ。

 

『昨日、フロムが言ってただろ?オブのその声って、その』

 

——–オブ、お前、その声さ。“声変わり”なんじゃないかって、うちの親父が言ってたぞ!

 

『声変わり?』

『そう、声がわり』

 

 何故ここで恥ずかしがるのか。インは少しだけ耳を赤くしながら照れくさそうに“声変わり”と口にした。

 

 そう、そうなのだ。これは先日屋敷に来た僕の主治医も言っていた。

 僕のこの声のガラつき、出しにくさは“声変わり”によるものだろう、と。

 

 つい先日、僕は11歳になった。

 通常よりも少し早いが、これは別に病気ではないので、ほっておいて大丈夫と言われたばかりだ。

 

 だから、この声のガラつきも、ただ耐えるより他ない。成長に対する変化や不都合に、薬なんてものは存在しないのだ。

 

『声がわりってさ、父さんに聞いたら、1回じゃなくて何回も繰り返して大人の男の人の声みたいになる事なんだって』

『そう、みたいだね』

 

 インはどこか照れをごまかすように【きみとぼくのぼうけん】の流れ星のページを、指でスルスルとなぞっている。

 

『オブ、怒らないで聞いて』

『なに?怒らないから言って』

 

 インが余りにも恥ずかしそうに言い淀むものだから、僕は気になって気になってインの言葉に被せるように聞き募った。インの薄く色付く耳に、やっぱり僕はゴクリと口に溜まった唾液を飲み下す。

 

 あぁ、喉が渇く。

 

『オブは声が出なくて嫌かもしれないけど、オレ、オブが声がわりって聞いて、その』

『なに、僕が声変わりで、インはどう思ったの』

 

 もともとくっついていた僕達二人の間には、僕が耳を澄ますせいで、これ以上ないってくらいに重なりあっている。

 

『オブの大人の声、楽しみで、あの、嬉しいんだ』

——–早く、聞いてみたい。

 

 

 パン!

 その瞬間、僕の中でまた大きな衝撃は走った。あの、木から落ちた時のような強い衝動。自分でもどうにもならない程の、刺激。

 

 僕は気付いたらインを押し倒して上からインの顔を見つめていた。

 

 あれ?僕は一体何をしているんだろう。分からない。僕にはこの感情と衝動が一つも理解できない。本にも、この衝撃の事は何も載っていなかった。

 

 これは一体なに?

 

『オブ?え?どうしたの?』

『イン』

 

 急に僕に押し倒されたのに、インは何の不安も、不満も、何もなさそうな顔で僕を見上げている。唯一見てとれる感情と言えば、そう、単なる疑問。

 

 キョトンとしたその顔は何の警戒心見えはしない。

 

 あぁもう、こういうところが心配なんだ。こんな事じゃ、インはいつか悪いやつに酷い目に合わされてしまうかもしれない。

 

 で。その悪い奴って、一体だれだよ。

 

『僕の大人の声、楽しみ?』

『……え、うん。楽しみ!すごく!楽しみ!』

 

 変な態勢のまま、インは一瞬視線をどこへともなく泳がせたが、すぐに僕の目をジッと見上げながら笑顔で頷いた。

 たまらない。たまらない。

 いや、たまったものではない。インは僕をどうしたのだろう。幸せで僕を殺す気なんだ、きっとそう。

 

『そう、なら……』

 

 インから放たれた感情が僕の中へと全て帰るのであれば、僕の中から溢れた感情は、もちろんインの中へと帰るべきだ。そう、そうだ。

 

『イン、イン、イン』

『えっ!?なになに、どうしたの?オブ?喉痛いの?』

『ちがう!聞いて!もう多分、そろそろ僕のこの声は終わるから!最後にインに聞いて欲しいんだよ!』

 

 僕はインの上からインの耳元に口を近づけると、何度も何度もインの名を呼んだ。

 僕の大人の声を楽しみに待ってくれているインに、純粋に子供であった頃の僕の声を最後に余す事なく伝えたい。

 

『イン、これが僕の声。わかった?聞いてる?もうすぐ、僕、大人になるから。忘れないで。僕のこの声、いい?』

『…………』

『イン?』

 

 そう、どのくらい僕はインに囁き続けただろう。囁きとはいえ、声にも限界がきた。それに、インからの反応が殆どなくなってしまった事に、僕はやっとインの耳元から顔を上げて、インの顔を見てみた。

 

 すると、そこには――

 

『イン!?』

『……っうう』

 

 顔を真っ赤にして、しかも鼻からツゥと真っ赤な血を流す涙目のインの姿があった。

 

『イン!イン!え!?なんで!?』

『もう、オブのばか』

———名前、呼びすぎ!

 

 インは僕の体を押しのけ、勢いよく体を起こすと、鼻から垂れる血を勢いよく手の甲で拭い去った。

 

 その瞬間、僕は完全に“悪いヤツ”になってしまったと自覚した。

なにせ、拭い去られるインの血を見て思ってしまったんだ。

 

 

 あぁ、もったいない、と。