俺の好きなモノ・こと。
この手帳。横掛けの鞄。射出砂での描画。絵を描く。人の前世話を聞いて回る。酒を飲む。酒のラベルを集める。休みの日の朝に街へ出る。店の看板を眺める。歌を歌う。時計塔からの景色。登る途中の物語を眺める。ビィエルの初級教本を読む。香油を探す。色砂を見繕う。ファーを撫でる。
あとは、忘れちゃいけない。
「ウィズの酒場、と」
俺はペンをクルリと手に持っていたペンを回して、気に入りの手帳の中にサラサラと書き込んでいく。今、俺は仕事の合間に、コッソリと手帳を取り出して、自分の好きな事やモノを書きだしているところだ。
こうして書いていくと、最近になって好きになったモノも結構多いような気をもする。
「ふうむ」
俺がなんでこんな事をしているのかと言えば、それは終業時間が残り半時という事で、新しい業務に取り掛かるにも中途半端な時間だからだ。
仕事が暇なんて、きっとウィズのように教会と酒場の2つの仕事を掛け持つ忙しい人間からすると羨ましいかもしれないが、これはこれで色々と大変なのだ。
暇だとしても、今書いているような“好きな事”を自由に出来る訳じゃない。もしここで、俺が暇だからと上手くもない歌を急に歌い出したりでもしたら、怒られるどころか、医者にかかる事を勧められてしまうだろう。
心のままに振る舞って微笑んでもらえるのは、小さな子供だけだ。あぁ、大人とはなんと不自由な生き物なのだろう。
「……あと少しが、長いよなぁ」
普段なら、こんな終業前の僅かな時間というのは、上司にバレないようにこっそりアバブとお喋りをして過ごすのが日課だ。けれど、生憎アバブは“あの日”以来、今日を含め2日間仕事を休んでいる。
アバブが顔色悪く過ごしていた、あの日。
バイに声を掛けられて泣いてしまったあの日。
「アバブ、大丈夫かな」
明日は俺と共に夜勤の日なのだが、大丈夫だろうか。
夜勤は俺一人でも大丈夫なのだが、やっぱりどうしてもアバブが居ないと、いつものような気分で仕事が出来ない。
有り体に言えば、凄くつまらないのだ。
「くぁ」
大きな欠伸が漏れる。俺は手帳にサラサラと好きなものを書き連ねながら、チラリと自分のデスクの周りを観察した。
俺だけでなく、皆同様に眠そうだ。チラチラと時計を気にする者も多い。
俺の職場は、女性が多い。というか、殆ど女性だ。
きっと子供のお迎えの時間でも気にしているのだろう。仕事が終わった後も、あの人達には休む暇はないのだ。
彼女達に比べれば、俺なんてまだまだ“自由”な方なのかもしれない。
「“お母さん”って大変だなぁ」
この仕事は、マナを必要としない業務が殆どである為、国営の事業だが給金がかなり低く設定されている。その代わり、就業時間や労働環境は比較的自由なため“働くお母さんたち”にはとても重宝される現場でもあるのだ。
そんな訳で、俺のような若い男は、この職場では俺一人だけだ。
こんな朝露の雫程度の給金で働く男は、マナの体内保有値が少ないとか、病気持ちとか、仕事を引退した老人の暇つぶしとか。
そんな致し方ない理由でなければ存在しないだろう。かくいう俺も、マナが無いから仕方なくここで働いている。
別にそれが嫌って訳ではないが、マナの有無がその人の人生に与える影響は本当に大きい。
ただ、俺も今更そんな事で他人を羨んだりはしない。もう、十分と言って良い程他人は羨み抜いた。羨みカスすら残らない程に。
「ん?」
俺が回りで終業間近の時間に向け帰り支度を始めた同僚達をぼんやりと眺めていると、その中で一人だけ、顔色を真っ青にして口元を抑える同期の女性を見つけた。
どうしたのだろう。アバブの時よりも随分具合が悪そうだ。
「大丈夫かな」
彼女は先日、前世から夫婦だったとう男と、今世でも運命的に再会を果たし、婚姻を果たしたばかりの女性だ。そのお祝いである華燭の典にも俺は同僚として出席した。
あぁ、そう言えばあの華燭の典で振る舞われた酒は最高に美味しかった。
何という名前の酒だっただろう。
そう、俺があの日飲んだ酒に記憶を飛ばした僅かな時間。ふと、視線を席に戻すと、彼女はもう既に自席には居なかった。
「あれ?」
俺が居なくなった彼女の存在に首を傾げていると、その瞬間終業の鐘が俺の耳に鳴り響いた。それと同時に、皆待ってましたと言わんばかり表情で、一気に椅子から立ち上がりゾロゾロと職場を後にしていく。
「…………」
俺は、しばらく彼女が戻って来るのを待ってみたが、彼女が席に戻ってくることはなかった。そのうち「残業なら申請をしたまえ」なんて腰に手を当ててやって来た上司に、俺は上手くない愛想笑いを浮かべ、そそくさと職場を後にした。
——–今日は1日よく頑張ったね。えらい、えらい。女の子はみんなえらいよ
職場を後にする俺の耳に、あの日のバイの言葉が過る。
「女の子は、すごいなぁ」
思わず漏れた言葉に、なんとなく俺は自分が男で良かったのかもしれないと、ぼんやりと思った。