104:何から守るのか

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『イン?キミはもう少し他人に対して警戒心を持つべきだ』

『けいかいしん?』

 

 

 僕は兼ねてより気になっていた懸案事項を、この日、やっとイン本人に伝える事が出来た。やっぱりこういった話は二人きりの時でなければ、非常にやりにくい。

 僕にだって羞恥心というものがあるし、なにより他人に聞かれるには後ろめたさだってある。

 

「そう、警戒心。人が生きるにの絶対必要なモノだよ」

 

難なく放たれる僕の声。

そう、僕の記念すべき第1回目の声変わりは終わりを迎えたのだ。今では、あの話しにくかったガラガラの声はナリを顰め、いつもの声に戻っている。

それにしても、ちゃんと僕の声は、低くなったのだろうか。自分では全く分からない。

 

『けいかいしんって何だっけ?』

 

 そう、全く意味が分からないといった風に首を傾げるインに、僕は頭を捻った。これはインに対して“懐中時計”や“文字”を説明するよりも難しいかもしれない。物質ではなく、概念的なモノをいかにインに分かりやすく伝えるか。

 

 今後のインの警戒心の有無は、僕の双肩に掛かっていると言っても過言ではない。

 

『世の中、良い人ばかりじゃないって事』

『そんな事知ってるよ!隣村のアゲインストは嫌なヤツだ!』

『いや、そうじゃなくて』

 

 そう言って途端に憤慨した顔を見せるインに、僕は何をどう説明すれば、インに少しは自衛本能を植え付けられるだろうかと必死に考えた。

 あの日、二人の秘密の場所で僕に簡単に押し倒されたインを見て、僕は自分がした事なのに、心底恐怖を覚えてしまった。

 

——-インって、実はすっっっごく、危なっかしい子なのでは?

 

『あのね、嫌な顔した嫌なヤツはいいんだよ。分かりやすいから!そうじゃないヤツが問題なんだ!』

『……うん?』

『あのね、人ってインが思ってる程、口で言ってる事と心の中で思ってる事が同じじゃなくてね』

『うん?』

『好きって口では言ってても、本当は嫌いって思ってたりとか』

『なんで?そんな人居るかな?オブの言っている事は、すごく、むつかしい感じの人の話?』

『難しいかな!?』

 

 あぁ、なんて予想以上に困難な作業なんだ。

インは僕の予想以上に警戒心がなかった。他人を疑わない。イン自身が素直で真っ直ぐなのだから、そんな“嫌なヤツ”の話をしても、ちっとも理解できないに違いない。

 

この小さな村に居たら、確かにそうそう酷い目に合うような事もなかっただろうが、いや、それにしたって人生って何が起こるか分からない。

 

だって現に僕みたいなのが現れているじゃないか!

 

『イン?僕達将来、都で一緒に酒場を開こうって約束してるよね?』

『うん!楽しみだね!』

『そう、楽しみなんだけどね。楽しみなんだけど!』

 

 そう、将来一緒に都に出ようと約束している手前、こんな警戒心の欠片もないようなインを都へとそのまま連れ出したら、きっと次の日には身ぐるみをがされてしまうに違いない。

 

 もちろん、僕がそんな事させはしない。けれど、大人になった僕も四六時中インの傍に居て守れる訳じゃないのだ。

現に、今だって会えるのは一日のほんの僅かな時間なのだから。

 

『都には、悪いヤツが居る』

『えっ!?どんな?』

『人のモノを騙し取ったり、暴力を振るったり、他人の悲しむ顔を見て喜んだり』

『アゲインストじゃん!』

『分かった、そう。アゲインストみたいなヤツが、アゲインストみたいな顔じゃなくて……そうだな、僕みたいな顔で居るとする』

 

 僕はアゲインストに会った事はないのだが、インが余りにも悪の権化のように言うアゲインストという奴の名前を使わせてもらう事にする。一体どんなヤツなんだ、アゲインストって。

 

しかし、僕のたとえにインの表情が一気に歪んだ。

 

『アゲインストの顔をしたオブと、オブの顔をしたアゲインスト……?』

『……入れ替わってしまってる』

『その場合、嫌だけど、オレはアゲインストの顔をしたオブと遊ぶのかな?え?それともオブの顔をしたアゲインストに嫌な事をされても我慢する事になる?』

『僕の顔だったら嫌な事されても我慢するのかよ!インにとっての僕って顔なの!?』

 

 言いたい事が思ったように伝わっている気が欠片もしない。しかも、先程から口に出されるインの言葉が地味に僕の心を抉ってくる。

 あぁ、僕は一体何をインに伝えたかったんだっけ?

 

『いや、違う違う!イン?僕が言いたいのはさ、良い人のフリをして近づいてくるヤツも居るから、すぐに信じてホイホイついて行ったらいけないって事。わかる?』

『アゲインストになんて付いていかないよ』

『もう!一旦アゲインストから離れよう!』

 

 あぁもう!あんまり僕の前で僕の知らないヤツの名前をたくさん呼ばないで欲しい。頭がおかしくなってしまう!

 

『インはさ!?僕の顔してるヤツになら何されてもいいの!?中身が僕じゃなくても、何でもしちゃうの!?』

『オブの顔って事はオブでしょう?それなら何されてもいいよ!』

『もう!そういうところ!そういうところだよ!』

『もう!今日のオブ、変だよ!なんなの!?オレ、オブの言ってる事、全然分からないよ!』

 

 あぁ、もう!なんて歯痒いんだ!

なんでインはこうも素直でバカ正直なんだ!

 

『イン、お願いだよ。イン。インがこんなんじゃ……』

『オブ?』

 

インがこんなんじゃ、僕の中にある悪いモノにだって、絶対抵抗してくれないじゃないか。

本当は、僕は都に居る悪い奴からインを守りたい訳でも、アゲインストから守りたい訳でもないのだ。

 

『インは僕が悪いヤツになったら……どうするんだよ』

 

 僕は、“僕から”インを守りたいのだ。他のどんな悪いモノからは僕が強くなって守ればいい。僕はそうなる為に毎日頑張っている。

 

 だけど。

 

『ねぇ、イン。僕はインが思ってるような“オブ”じゃないよ』

 

だけど、僕は僕からインを守ったりできない。最近、僕は自分が自分でないような、凄く汚い感情に支配される時がある。こんな気持ち初めてで、自分でもどうしたら良いのか分からない。

 こんな意味の分からない事、インには上手く伝えられない。なにせ、僕自身だって理解できていないのだから。インが分からないのも当然だ。僕は、どうしたらいいのだろう。

 

 そう、僕がどうしようもない気持ちを抱えたまま両手で顔を覆った時だ。

 

『そしたら、オレは悪いヤツになったオブとずっと一緒に居るよ』

『……っ』

『オブ?何が不安なのか、僕には分からないけど。本当の事言っていい?』

 

 本当の事。

インは前もそう言って僕をおかしくした。多分、僕はこれを聞いたら、もうきっと、後には戻れない気がする。そして、それはインも同じだ。

 

『な、に』

『オレはね、オブ』

 

僕達はこの瞬間、きっと、もう――。

 

『オブが悪い奴になる事よりも、オブと離れないといけなくなる方が、ずっと怖いよ』

『……イン』

 

パァン。

 僕の中の強い何かが、この時弾け終わった。弾けて、僕の中に飛び散って、そして、完全に僕の一部になった。

 そう、その通りだ。僕の中の悪いモノが、いくらこれから先の未来、インを傷つけて、悲しませても、もう僕はどうする事も出来ない。傷ついて悲しんだインの手を離さないまま、僕は歩くだけ。

 

 それだけだ。

 

『イン、僕も』

『うん』

『僕も、同じ』

 

 そう言って、僕は頷くインの手をしっかりと握り締めた。そして、ちょっとだけ自覚した。

 

 僕の声は、確かに少しだけ低くなっていた。