俺は思わずカウンターから駆けて出ていくと、未だにトウに追い詰められたような姿勢のまま固まるバイの元へと走った。それに呼応するようにトウが俺からバイへと視線を移す。
「えっ」
すると、先程まで格好良い台詞を、なんて事ない顔で言っていたトウが一瞬にしてギョッとした表情を浮かべた。
「うっ、うっ、うっ」
バイは泣いていた。
そりゃあもう、俺達の予想する遥か上を行くような勢いで、目からボロボロと涙を流す。人はこんなにも涙を目から零せるモノなのか。しかし、その涙は感情をふんだんに込めながらボロボロと零れ落ちるのに対し、その声は我慢するかのように詰まった音を漏らすのみ。
なんて泣き方をするんだ。そんな泣き方を見ていると、なんだかバイが可哀想でたまらない気持ちになるじゃないか。
「バイ、おい。大丈夫か?」
「っう、うううっ、うっ」
目を瞬かせながら戸惑うトウを、俺は勢いよくバイの前から押しのけると椅子に座ったまま「うっうっ」と肩をヒクつかせるバイの両肩に手を置いた。いつもは俺よりも背の高いバイが、今は座っているせいで、俺よりも下にその顔がある。
「バイ、なぁ、大丈夫か」
「うっ、うっ」
すると、バイは静かに首を振りながら俺の胸へと顔を押し付けてきた。
俺の背中にはその長い手が回され、体は完全にバイへと支配されてしまっている。そんな俺とバイの様子を、トウは、最早なんと表現したらよいのか分からない程、様々な感情の入り混じった顔で見ていた。
「ったく、トウ。お前、余裕こいてた癖に、マスターと同じ轍踏んでんじゃねぇよ」
「……まったくだな」
「ま、俺としてはこの位たまにあって良いとは思うけど」
「待ってくれ!でも、俺はウィズ程強く言ったつもりはなかったんだが」
「お前は普段がバイに対して優し過ぎるから、その差がスゲェんだよ。普段から俺みたいにしとけば、ここまではなかったろうな」
アボードは一人余裕そうな表情で、チビチビと酒を飲みながら偉そうな事を言う。
そして、俺の腹からは、スビズビとバイが鼻をすする音が聞こえる。あぁ、きっと今頃俺の服はバイの涙と鼻水でべったりなんだろうな。
「……そうか。バイ。なぁ、俺はそこまで怒ってはいない。分かってくれればいいんだ」
そう言ってトウが俺に必死にしがみつくバイの肩へとその手をかけた。
しかし、いつもであれば「触んな!」と叩き落とされるその手が、今回は叩き落とされる事なく、むしろトウの心を叩き落とす結果を生んだ。
「……ひっ」
「え」
ビクッ。
そう、バイは俺の胸に顔をうずめたまま、トウが肩に触れた瞬間、小さな悲鳴と共に大いに肩を揺らした。完全にトウに対して怯えている。
これでは、普段のように手を叩き落とされた方がマシと言うものだろう。
「…………」
そんなバイの対応に、トウは普段では余り見られない程明らかな動揺をその表情に浮かべていた。いつも、どちらかと言えば明るくて基本、笑顔をその顔に張り付けているトウからは信じられない程、その顔は悲哀に満ちていた。
「ハラグロゼメだ」
そう、それはまるで、初級教本に出てくるハラグロゼメの青年が、ビッチウケの主人公のから本気で拒絶された時の表情のようだ。
いや、なんて事だ。俺はあの初級教本の続きが気になり過ぎて、現実世界との区別がつかなくなってきてしまったとでもいうのか。
重症だ。
「トウもマスターも、やり方が下手なんだよ」
「「…………」」
「いや、効果性の有無で言えば、お前らは天下一品だろうな。自分をどう見せれば相手に最大限の影響を及ぼせるか十分に理解してんだから」
「いや、そんなつもりは」
「あぁ、そうなつもりはないんだ。アボード」
俺にギュウギュウとつかまって肩を揺らすバイを宥めながら、隣で始まったアボードからウィズとトウに対しての謎の説教に俺は眉を顰めた。
一体何が始まっているんだ。というか、アボード。お前は一体何様なんだ。
「自覚がないなら一応言っておくが、お前らのやり方は反省を促したい部分とは違う場所に、こいつらの感情を持って行き過ぎだ。叱るというより脅しに近い。もしお前らがコイツらにしたいのが説教ではなく調教だっつーんなら、それでも良いんじゃねぇか」
「……脅し」
「……調教」
コンコンコンコン。
カウンターを人差し指で叩きながら、アボードが淡々と言葉を続ける。最早、俺にはアボードが二人に何を言いたいのかサッパリわからない為、この辺りで聞くのを止めた。
「バイ」
なので、俺は肩を揺らすのを止めたバイの肩をポンポンと叩くと、バイにだけ聞こえる声で話してやった。
「俺は分かってるよ。バイが俺の事殴ったりしないって。あんなの冗談で話してただけなのにな。トウはひどいヤツだよ」
「~~~~~」
そんな俺のありきたりな慰めの言葉に、バイは俺の腹の中で小動物が踏みつぶされて絶命したような薄い悲鳴を上げて泣き始めた。そんなバイに、俺は「いかん、いかん」と頭を振る。こんな慰め方をしては、止まる涙も止まらなくなるではないか。
こういう時は関係のない話で、感情を別の所へ逸らしてやらないといけないのに。
はて、何を話そう。
「家にある、お前の持ってきたゼツラン酒。あれ、いつ飲もうか?来週にするか?」
「…………」
声を上げずに俺の腹で小さく頷くバイ。
「ゼツラン酒は強いからな。出来れば次の日休みな方がいいよな」
「…………う」
う。短いが肯定の返事だ。“うん”とい事だろう。悲鳴のような鳴き声も、肩の揺れも少し収まってきた。そろそろ大丈夫になってきたのではないだろうか。
「そう言えばさ、バイがアバブに貸してくれた上着さ、あれ無いと困るやつ?」
「……こまらない」
鼻の詰まったようなくぐもった声が、俺の腹から聞こえてくる。もう、泣いてはいないようだ。
「アバブな、昨日と一昨日2日間仕事休んでてな。明日の夜勤もアバブと二人の予定なんだけど、来るか分からないから、上着まだ返せないかも」
「上着なんていつでもいい……ケド、あの子、明日は来ると思う」
明日は来ると思う。
そのバイの言葉は、何故か確信めいた響きを秘めており、俺はバイが言うならアバブは明日、仕事に来るのだろうと妙に納得してしまった。
「じゃあ、あの初級教本の続きさ。仕事の時、アバブに俺からまた頼んどく。だから元気だせ」
「……俺も一緒に頼みに行く。夜勤って何時出勤」
「来るって。えっと、通常終業時間が、夜勤組の出勤時間だけど」
「わかった……かっこいい俺が頼んだ方が、アバブちゃんも、続き、必死で探してくれるかも」
そう言って、やっとの事で俺の腹から顔を離したバイの目と鼻の頭は、今や真っ赤になってしまっていた。“かっこいい俺”なんて自分で言うか?と思わなくもないが。いや、しかしそれでも泣きはらしたバイの顔は、やはり格好良いのだ。
なんてことだ、バイの言っている事は正しい!
「確かに、アバブは格好いい男が好きだから、お前は使えるかもしれない」
「だろ。俺は本気であの教本の続きが読みたいんだ」
「あぁ、俺もだ。じゃあ、明日俺の仕事場の前で一緒にアバブを待とう」
「わかった」
そう、深く頷いたバイの鼻からタラリと鼻水が垂れた。いくら格好良い顔だとしても、この顔に鼻水というのはおかしなものだ。
俺は思わず手に持っていた布で、バイの鼻を拭ってやった。その瞬間、バイは幼い子供のようにキュッと目を瞑った。
あれ、この手に持っていた布は一体何だっけ。
「酒、ぐさい」
バイのその詰まった声に、俺は手に持っていた布の正体が先程アボードから投げ渡された台拭きである事を、はたと思い出したのであった。