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それは最早絶叫に近い泣き声だった。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~』
一体どうしたと言うのだろう。
僕はいつもの場所で大いに泣き喚くニアの姿に、その隣に立つインの方へと顔を向けた。インはニアに必死に抱き着かれており、困ったような顔を僕に向けてくる。
ただ、珍しい事に、泣き喚くニアの傍にはフロムが居るにも関わらず、いつものようにニアの頭を撫でてやったり、慰めてやったりという様子が見受けられない。
『ニアと喧嘩でもしたの?フロム』
『してねーよ!』
僕の問いかけにフロムは泣き喚くニアを横目に、その顔を歪めて叫んだ。ただ、その顔からしても、このニアの大泣きの原因がフロムであることは一目瞭然だ。
『ニア、オレ歩きにくいよ。離れて』
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!』
『ああああ、分かった分かった!よしよし!兄ちゃんが抱っこしてやるから!』
インに状況を尋ねようにも、ニアの泣き声が更に激しくなった為、最早こちらの相手をしている暇など欠片もなくなっている。ほとんど体格差のない妹を、インは慣れた手つきで抱きかかえて体を揺らしている。
『兄ちゃんは分かってるよ!ニアがティルを傷つけるつもりなんてなかったって。フロムが構ってくれないのが悲しかったんだもんな?気持ちは分かるよ、よしよし』
『あ゛あ゛あ゛あ゛~!』
そんなインに、ニアは容赦なく顔を埋め泣き続けていた。
『フロム、何なのこれ』
『俺は……悪くない。悪くないけど、つらい』
『フロム、何お前まで泣きそうな顔してるのさ』
『だって、だって』
そう、自分の腕で顔を勢いよくこすり始めたフロムは必死に泣くのを我慢している様子だった。あの元気なフロムが、最早ここまで憔悴する姿というのは、本当に珍しい。
珍しいを通り越して怖い。
『じゃあ、質問するから。出来るだけ余計な事言わずに答えて。多分今のフロムが話しても、逆に意味わかんなくなりそうだから』
『俺、悪い事なんかしてねぇよ。間違った事なんかしてねぇのに』
質問いち。
ニアが泣いているのは、理由はどうあれフロムが原因か。
——-いや、うん。でも、俺わる
質問に。
ニアもフロムに何かしたのか。
——うん。いや、でも、
質問さん。
泣いた原因は、フロムがニアに手を上げたせいか。
——ちがう。そんな事、俺がするわけ
質問よん。
泣いた原因は、フロムがニアに何か言ったせいか。
——-うん。でもは、間違った事は、
質問ご。
今回の件に、インは関係しているか。
——-関係ない。
質問ろく。
これは二人の間だけで起こった問題か。
——たぶん、ちがう。でも、
質問なな。
別の誰かが関わっているとすれば、その相手は男か、女か。
——おんなのこ。
質問はち。
その女の子の名前は“ティル”か。
——-うん。でも、ティルは、
ここまで尋ねて、僕はなんとなく状況を理解できた。途中、フロムから放たれた不要なフロムの主観は一切耳に入れなかった。状況の把握の邪魔になるからだ。
お陰で、大分と理解できた。
もちろん、細かい状況は分からないが“ティル”が関わっているのであれば、ニアのこの泣き方も納得がいくというものだ。
『ティル、かぁ』
そう、ティルという少女。年の頃はニアとほぼ変わらない。たまに僕の物語のお話会にもやって来ていた少女の事を、僕はよく覚えている。
なにせ、ティルは――
『ニア、やっと寝た』
ここに来てやっと、インが泣き喚いていたニアを寝かしつけて僕達の会話に入って来た。インの腕の中には、先程まで激しく泣き喚いていたのが嘘のように静かになったニアが居た。
『お疲れ様、イン』
『……うん、オレ、ほんと疲れたよ。オブ』
『凄かったね、ニア』
そう、僕がインの腕の中の塊を覗いてみると、ニアの顔は涙で顔に張り付いた髪の毛と、タラリと垂れる鼻水で、そりゃあもう凄い事になっていた。
凄い状態なのに、何故か可愛さは変わらない。さすが、インの妹だ。
『イン。俺、悪く、ない、よな』
『……フロムは悪くない。悪くないけど、オレはニアの気持ちがわかるから、あんまりお前の味方じゃいられない』
『なんで、だよ。俺、悪い事、してないだろ』
『じゃあ堂々としてたらいいじゃないか』
『イン。なんで、お前まで、そんな事いうんだよぉ』
いよいよ本格的に泣き始めたフロムに、僕は少しだけ同情してしまった。きっとニアが眠りにつくまで、必死に泣くのを我慢していたのだろう。
予想するに、今回の問題はフロムのような感情一直線なヤツには理解し難いに違いない。
今回のこの件。渦中のもう一人の少女、ティル。
彼女はフロムに惚れている。しかし、その事を、フロムは一切気付いていない。ハッキリ言って、今回のこの件は痴情のもつれでしかないのだ。
『イン。今回の件、ティルが関わってるんだってね』
『……うん、そう。ティル』
そう、どこかゲッソリとした様子で頷くインは、自分とほぼ体の大きさの変わらない妹を抱えて疲れ果てた様子だった。
『これは僕の予想なんだけどさ』
『オブが予想してるので合ってると思うよ』
『いや、一応聞いて』
どこか投げやりな、インの気だるげな表情。あまり良い表情とは言えないが、インのこの顔も良いじゃないか、と僕は頭の片隅で思う。
なんだろう、少しだけ腹の底にゾクリと妙な感覚が走るのは、気のせいだろうか。
『フロムが、何をかは知らないけど、ニアよりティルを優先したせいで、ニアが怒った』
『そう』
『で、ニアがティルに……悪い事、ここで言うとちょっとした暴力?みたいな事をティルにしたのかな?』
『そう』
『そのせいで、フロムがニアを怒った』
『その通りだよ、オブ。ごめん、オブ。オレちょっと座るね』
いよいよ抱っこする腕が限界になったのだろう。インはニアを抱えたまま地面に座ると、自身の足の上でニアを抱えそっと頭を撫でてやっていた。
ニアのヤツ、本当に羨ましい奴だ。
『……もともと、俺がティルのお母さんに頼まれて、家の冬支度の手伝いに行ってたんだ。冬用の薪割りとかさ』
『あぁ、確かティルの家はお父さん居なかったもんね』
『うん、だからうちの親父もよく手伝いに行ってる』
『助けてあげなきゃ、女の人二人じゃ、冬は大変なんだ。そこにニアが来て、薪割りの途中で俺の邪魔してきて。薪割りって危ないんだ。ふざけてると怪我する。あとで、ニアの所には行くからって言っても聞いてくれないし、そのうちティルと喧嘩し始めるし。ニアがティルの髪の毛を引っ張ったせいで、ティルは泣きだすし』
ここまでフロムがダラダラと口を開いて、僕は最早聞くのを止めた。つまらない程に、やっぱり僕の予想通りだったからだ。
そして、インの言うようにフロムは何一つ悪くない。
『フロムはさ、ニアが好きなんだよね』
『当たり前だろ!』
『ニアと結婚したいんだよね』
『そうだ!』
『なら、大人になるまでに、もう少し女の子の気持ちを分かるように勉強しろよ』
『あああああもう!なんだよオブまで!?俺が!悪いってのか!?』
僕の言葉に頭を掻きむしり始めたフロムに、僕は溜息を吐くしかなかった。
悪いか、悪くないか、正しいか、正しくないか。そんな次元で話をしているようでは、フロムはきっと今回のような事を何度も繰り返すだろう。
ニアは頭の良い子だし、周りをよく観察する子ではある。こないだのように、他人の気持ちを利用して、自分のしたい事だってきちんと実現する。
けれど、インと比べて自分の気持ちに対して“素直さ”がない。それは末っ子故の甘えか。
伝えずとも可愛がられてきた驕りか。
それに対し、フロムは見えているものしか見ようとしない。
まぁ、これはインにも同じような所があるのだが、インとフロムではその性質が完全に異なっている。
インは他者の“悪意”に鈍感で、フロムは“好意”に鈍感なのだ。
フロムのような、見えない気持ちを慮る事の不得手なこの一直線に、ニアの面倒は難しいのではないだろうか。
あぁ、なんて前途多難な二人なんだろう。
フロムがニアを好きなように、ニアだってフロムが好きなのに。
『フロム、あんまり見境なく女の子に優しくし過ぎるなよ』
『男は女の子には優しくするようにってかーちゃんが!』
『ハイハイ。“正しい事”はもう良いよ』
僕は隣で“正しい事”ばかり真っ直ぐに口にするフロムにテキトーに返事をすると、僕は絶対に同じ轍は踏まないぞ、と心の底から決意したのだった。
あぁ、僕は、分かっている。僕はフロムのような不器用なヤツじゃない。想像力もあるし、頭だって良い。なにより、僕はインの事を誰よりもよく分かっているんだからな!
しかし、その後。
——–オブのバカ!なんでオレより先にニアにお話しの続きしちゃったの!?最初に絶対にオレにお話しするって約束してくれてたのに!オレ、インの口から聞きたかったのに!ニアから聞いちゃったじゃん!
——–ちがうんだ!そんなつもりじゃなくて!少しだけ先の話を聞かせてって言われて。ほら、ニアはまだ小さいから泣いたら可哀想だし!インには言わないからって……
——-じゃあ!オブはオレの見てないところで小さい子相手なら他の子に先にお話ししてるんだ!オレに嘘ついてるんだ!?
——-ついてない!お話もしてないから!今回はたまたまで、
——-もう!オブなんて信じられないよ!オレ帰る!
——-ちょっ!イン!待ってってば!
僕はこの手の言い争いを、インと幾度となくしていく事になる。
あぁ、なんて僕は愚か者なんだろう!
そして、イン!君はなんてやっかいで面倒くさいんだ!
たまらないよ、もう!