呼び方って凄く大切だと思う。
呼ばれるうちに人は、そうなっていくって聞いた事があるし。
まぁ、だいたいは名前で呼ばれるんだろうけど。
そんな俺には“アウト”って名前がある。
だけど、俺がアウトだからアウトと呼ばれると言うよりは、アウトと呼ばれるからアウトになっていったんじゃないかって思うんだ。
——–アウト先輩!
そうそう、それぞれの立場を表すよな。そう呼ばれる事でそうなっていく。まさに先輩って呼び方が俺をそうさせた。
——-おい、クソガキ!
実の弟からは“クソガキ”と大変屈辱的な呼び方をされる。あり得ない。論外。
——–お兄ちゃん!
まったく弟でもなんでもないヤツからは“お兄ちゃん”などと訳の分からない呼び方をされ始めたし。
——–アウト、俺はまだお前をインだとしか思えないんだ。
アウトと呼びつつ心の中では別の呼び方をしてくるヤツも居る。
そして、
——-アウト、インはこの世界に居ると思うか?
お前はどうだろう。ウィズ。お前は俺をどう思ってる。
お前は俺に、一体”誰”を望む?
——
———-
————–
バイからの「いってらっしゃーい!お兄ちゃん」という謎の見送りを背に、俺はやっとのことで職場へと到着する事ができた。
そして、到着早々、事務所の片隅に出来た女性達の集団に「はて」と首を傾げる。
「よいしょっと」
傾げつつ、ひとまず自分の机へと荷物を置きに向かう。この事務所には自身の荷物を仕舞う為の戸棚部屋はない。なので、俺はいつもように横掛けの鞄をポイと机の横に引っかけると、ドサリと勢いよく椅子へと腰かけた。
あぁ、今日もこれから大して忙しくもない、大いにつまらない業務の始まりだ。着いたばかりだというのに、既に帰りたいこの気分に、俺は一体どうやって折り合いをつけて今日一日を過ごせば良いのだろうか。
今頃、俺の部屋でぬくぬくと“教本”を読んでいるバイを思うと羨ましくて仕方がない。
「おはよーございます。アウト先輩」
「おはよう、アバブ」
すると、前方から既に席についていたアバブから気だるげな挨拶が送られた。その気だるげな声の気持ち、俺にはよく分かる。あぁ、よく分かるさ。
分かり過ぎて最早辛くて仕方がない。仕方がないので、俺は少しでも楽しい話題をと思い、机の脇からひょいと顔を出して“教本”の感想を伝えてみる事にした。
「ね、アバブ。早速、教本続き読んだよ!」
「シッ!止めてください。感想は夜勤の時におうかがいしまうので。今は黙って!」
「……ねぇ、いつも思ってたけど、なんでこの話は皆が居る時はダメなの?」
そう、それは以前から疑問だった事だ。アバブは、あんな素晴らしい“ビィエル”の趣味を、どこか恥ずかしいモノのように扱うのだ。それが、俺にはイマイチ理解できない。
「……もうっ。それが分からないようじゃ、まだまだアウト先輩を私たちの共同体に入れる訳にはいきませんね」
「ええええ!全然分かんないだんけど!」
「いつか貴方にも見える時が来るであろう、それまでしばしのお別れだ」
「え。なにそれ?わかんない。アバブどうしたの?早退するの?」
「いや、早退なんかしませんよ!ここはあんまり突っ込まないでくださいよ!恥ずかしくなってきました!」
そう、顔をパタパタと手で仰ぐような仕草をするアバブに、俺は仕方がないので教本の話をするのを止めた。せっかく教本の感想やカイシャクについてアバブに合っているか尋ねようと思っていたのに。
次にアバブと夜勤が被るのはいつだっただろうか。
「……うわっ、全然被んないじゃん!」
俺が引き出しの中に入れていた勤務管理表を出して見てみれば、そこには来週末までアバブと俺の夜勤が被る事はない事実を明確に告げていた。
元々、家庭を持たない独身男の俺や、まだまだ若いアバブなんかは夜勤に入れられる事が多かった。その為、被りも多かったが今回はたまたま被る日が来週までないようだ。
「えーっ、俺アバブとの夜勤好きなんだけどなー」
「アウト先輩って、一応異性である私にそういう事を言っても、変な誤解を生まないから凄いっすよね」
「それって褒められてるのかな」
「いや、男としてはどうかと思います」
だよねー。俺は思わず勤務表を持っていた手に力を籠める。グシャリと皺の寄った紙に溜息を洩らすしかなかった。男としての魅力とは、一体どうすれば身に付くのだろうか。
「でも、アウト先輩。それなら多分もっと近いうちに私との夜勤、被る日が来ると思いますよ。良かったっすね」
「え」
そう、どこか先程まで女性が集っていた空間を見ながらアバブが言う。つられて俺もそちらを見てみれば、まだ複数の女性が集まってはいるものの、先程よりも人の減ったその場所が一体何を中心に人だかりが出来ていたのか見る事が出来た。
そこには、顔色悪く、もう半分涙を目に浮かべて俯く“あの”同僚女性が居た。
「……また、気持ち悪いのかな」
「ありゃ、アウト先輩気付いてたんですね」
「何が?」
「あ、違いますね」
“気付く”とは一体何に気付くのだろう。
彼女がここ最近体調を悪そうにしていたのには、さすがに気付いていた。確か、アバブが……せ、生理で2日間休んでいた時だ。
あの日が最も体調が悪そうに見えた。
声をかけようとかどうしようかと迷っていたら、いつの間にか彼女は居なくなっていたのである。
「大丈夫かな。病気かな、心配だね」
「そっすね。まぁ、多分病気ではないと思いますけど」
「へ」
最後にアバブの言った言葉に俺が一瞬呆けていると、その瞬間始業のチャイムが部屋中に響き渡った。それと同時に上司がノロノロと部屋へ入ってくる。まったく、アイツは何故いつもこんなにギリギリにしか現れないのか。
「はい、では朝礼ですが。今日は特に業務の連絡事項はありません」
分かっていた。だって、いつも連絡事項はないのだから。
いつも連絡事項等ない癖に、この形ばかりの朝礼は必要なのだろうか。今日もいつも通り力半分でまったり頑張ろう。本気を出したとて、給料は変わらないのだから。
そう、俺が上司の方など一切見ずに、ぼんやりとそんな事を思っていると、意外な事に朝礼はそこでは終わらなかった。
「ただ、シンスさんから皆さんに、おめでたいご報告があります」
シンスさん。
そう、それは先程から口元を手で抑え、半ば涙目になっているあの同僚だった。そう言えばそんな名前だったと俺は改めて思う。余り関わる事もないので、今までぼんやりとした認識しかしてこなかった。
「……は、はい」
上司に言われ自席からゆっくりと立ち上がった女性、いや、シンスに、全員の視線が集まる。もちろん、俺も彼女が今から何を言うのかと目を瞬かせて耳を傾けていた。
「この度、わたくし事、なのですが。妊娠しまして」
そう、途切れ途切れ一言ずつ口を開くシンスの姿に、俺は全くの予想外な発表にポカンとするしかなかった。どうやら彼女はお腹に赤ちゃんが出来たらしい。
確かに、それはおめでたい事だ。