141:男だから

 

 

「本当は、まだ、まだすごく初期で。どうなるかも分かりませんし、皆さんにお伝えするべきか、迷ったんですが。つ、つわりが酷くて。このまま、だと、皆さんに何もお知らせしないまま、ご迷惑を、おかけする事に、なると」

 

 そこまで言って、彼女は自身の持っていたタオルで顔を覆った。

 泣いているのか、気持ちが悪いのか。俺には全く分からなかったが、彼女の余りにも辛そうな様子に、これは「本当におめでとうございます!」と笑顔で伝えてよいものなのかと真剣に悩んでしまった。

 

「ごめんなさい。でもっ、本当に、気持ち、悪くて。お医者さんからは、まだ、全然初期で、これからもっとひどくなると言われたので、もう、どうして良いのか分からなくて。本当に、これから皆さんには、ご迷惑をおかけすると、思います。本当にすみません」

 

 そのままスッと蹲るように席についたシンスに、上司と周りの同僚達が駆け寄る。駆け寄った人々の言葉を聞くところによると、どうやら、この事だけでも自分で伝えようと必死に出勤だけはしてきたらしい。

 「もう今日は帰りなさい」と上司に声を掛けられ、シンスはもう完全にタオルで顔を覆い、涙を流しながら頷いていた。

 

 俺は信じられなかった。

 あれが本当に「おめでとうございます」でも定評のある妊娠の報告なのだろうか。赤ちゃんが出来たら皆笑顔で報告し、笑顔で「おめでとう」と言うものじゃないのか。

 

 つわりってなんだ。

 いや、知識としては知っている。赤ちゃんが出来たらなる気持ち悪くなるヤツだ。まぁ、知っているとしても俺の持っている知識など、それくらいなものなのだが。

 けれど、あんなのただの病気じゃないか。顔色は悪くて、辛くて、気持ち悪くて、仕事も出来ない。

 

「…………」

 

 俺はシンスの状態に信じられないまま固まっていると、いつの間にか朝礼は終わっていたようだった。

 

 そして、その事実に気付いたのは急に俺の肩に衝撃が走ったせいだ。思わず、俺の肩に衝撃を与えてきた主を見てみれば、そこには先程シンスに「もう帰りなさい」と優しく声を掛けていた上司の姿があった。

 

「そんな訳で、アウト君。キミ、彼女の入っていた夜勤。替わりに入ってくれるかな」

「……は、はあ。はい。分かりました」

「頼んだよ」

 

 俺がぽかんとしたまま頷くと、上司はすぐに何事もなかったかのように自席へと戻っていく。

 俺は上司の言葉に、ちょうど手元に残っていた夜勤表を見てみる。そして、間違わないようにと自分とシンスの勤務表に丸印を書いてみた。

 

 幸いな事に、シンスと俺が夜勤で被っているところは一つもない。ほんとうに、不幸中の幸いである。

 

「何すかあれ、あんり雑過ぎでしょ。普通だったら勤務表組み直しません?自分が面倒だからってアウト先輩に丸投げとか酷すぎっすよ」

「あ、アバブ!明後日、俺と夜勤被るよ!」

「アウト先輩……」

 

 俺が早々にアバブと夜勤が被った事を喜んでいると、アバブは「もう」と何故か頭を抱え始めた。

 

「分かってます?アウト先輩。あのクソ上司に良いように使われてるんっすよ!?普通、こういう事があって、一人に丸投げとかあり得ないですからね!文句言っていいやつです!」

「あー、別に俺はいいよ。暇だし、男だし。元気だし。夜勤入ると給料も上がるし」

「アウト先輩、そんな事言ってたらダメですよ」

 

 どうやらアバブは俺の為に怒ってくれているらしい。アバブのどこか納得のいかない怒ったような表情に、俺はどう言ってよいものやらと、ひとまずヘラリと笑う事にした。

 けれど、それはアバブの怒りを抑えるには至らなかった。

 

「アウト先輩。確かに仕事ですし、何かあったらお互い様って笑って助け合う事も必要です。けど、今のは違います。そんな事言ったら、暇で元気で男なら、何も文句言っちゃいけない事になるんすよ?アウト先輩はもっと自分の行間も読んでください!」

「……耳が痛い」

 

 自分の行間すら読めないとは、つい最近どこかでも思った事だ。それがどこだったか覚えていないが、自分で自分の“ぎょうかん”すら読めないなんて「へん」だ。

 

「アウトくん……」

「っシンスさん」

 

 いつの間にか俺とアバブの傍に、タオルを片手にしたシンスが現れていた。余りの元気の無さに、一切のオーラというか、雰囲気をまるきり感じる事が出来ず、気付くのが遅れてしまった。

 

「ご、ごめんなさい。夜勤、迷惑かけて。私から、上に、伝えますから」

「いいいいいいい!いいです!大丈夫!俺、給料上がるから逆に助かると思ったんだ!むしろ、ありがとう!」

「アウト先輩!?……シンスさん、この度はおめでとうございます。大変なのに頑張って仕事に来て、本当に、もう無理しないでください。この件については、こっちで何とかしますから。もう今日は帰ってゆっくりしてください」

 

 アバブの言葉に、シンスは一瞬表情を緩ませて「ありがとう。アバブちゃん」と言うと、目頭に溜まっていた涙をタオルではなく手の甲で拭った。

 

 女の子って凄い、女性って大変だ。 俺は言って良いものかどうか迷ったが、アバブと二人で二言三言交わし、俺達に背を向きかけたシンスに意を決して口を開いた。

 

「シンスさん」

「……アウト君」

「あの、えっと、大変だと思うんですけど、」

「…………」

「おめでとう、ございます」

 

 これは言っても良い言葉だったのだろうか。彼女は赤ちゃんが出来て、こんなに苦しい目に合って、こんなに泣いているのに。でも、世間ではおめでたい事だから、やっぱりこうして「おめでとう」と言われる。

 

 つわりは病気じゃないから、幸せな事だからと言われて、辛いのに「おめでとう」と言われる。もしかしたら迷惑かもしれない。内心、人の気も知らないでと怒ってるのかもしれない。

 

 けれど、こうして赤ちゃんが出来た女性を前に、何故か俺も言わずにおれなかった。

 そう、俺は知りたかったのだ。こんなに辛い想いをしても、彼女はやっぱり赤ちゃんが出来て嬉しいのか。

 

「……ありがとう、アウト君」

「っ」

 

 ありがとう。そう言った彼女は、やっぱり辛そうで、苦し気で、元気なんて勿論なかった。けれど、さっきの返事で分かった。

 

 あぁ、分かったさ。

 

 

 

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