145:ズル休み

 

 

     〇

 

 

 

 部屋に戻ると、そこには誰も居なかった。

 

そして、少しだけいつもと様相の異なる部屋。

 

ただ、直前まで誰かが居た形跡がある。なぜなら、その部屋にはアバブから借りた“教本”の続きと、そして。

 そして、一瓶まるまる空になったゼツラン酒の瓶が、ゴロリと横たわっていたから。

 

「……嘘だろ、全部飲んだのか」

 

 俺は、その暖かい誰も居ない部屋で独り言ちると、急いで部屋から飛び出た。あんな酒の弱いヤツが、あの“酒飲み殺し”と呼ばれる酒を一瓶まるごと飲み干して、無事でいられる訳がない。というか、別に酒が弱い訳ではない俺だって無理だ。

 

バイが居る場所など、もうハッキリと分かっている。

 

「っぐ、っは、ッウエ」

「……バイ、お前バカか」

 

 やっぱり此処だった。

俺の部屋と違い、驚くほどシンと冷え込むその場所は、寮の共同台所だった。

 

 その水場で体を丸めるようにして嘔吐を続けるバイの背中に、俺はゆっくりと近寄る。

一瞬、バイも俺の存在に気付きチラとこちらを見たが、またすぐに吐き気が襲ってきたのだろう。水場に顔を突っ込むように戻すと、殆ど中身のないソレを力無く吐き出していった。

 

「バカ、バーカ。ほんと、お前、バーカ」

「……るせ」

 

 俺は白いシャツだけに身を包んだバイの背中をさする為に、苦々し気な表情で俺を睨むバイの傍に寄り添った。触れた体は、やはりというか、なんというか、とてつもなく冷たい。

 

「お前はどうしてこう体を冷やすんだ」

「……寒いのには、慣れてる」

「慣れてても、冷やすな冷やすな」

 

 ほら。

 俺は自分の着ていた上着を丸くなるバイの背に掛けてやる。俺の上着は着るとなれば、バイには小さすぎるが肩に掛けるくらいなら、まだ事足りる。そんな俺の行動に、バイは何を思ったのか、キュウと眉を寄せ泣きそうな表情を浮かべた。

 

「おんな、みたいに扱うなよ」

「なんだソレ。体を冷やさない方が良いのは、男も女も変わらないだろ」

「……おにいちゃん、きもちわるいよ」

 

 バイが水場から顔を上げ、のっそりと俺の胸へと頭を寄せて来た。「兄ちゃんじゃねぇよ」と、俺は答えながら寄ってきた大きな子供の頭を撫で、もう片方の手で背中に手を回してやる。

 

「帰ってくんの、おそい」

「ごめん、ごめん。残業だったんだよ」

「うそつき」

 

 最早泣いているのでは、と思える程、バイの声は弱弱しかった。あの元気で、明るくて、女の人に声をかけて笑っていたバイの姿など微塵も残ってはいない。

 

 それが、俺には辛くて仕方がなかった。これも、全部俺のせいだ。俺は、どうしたら他人を傷付けずに生きる事ができる。

 どうやったらバイを、また笑わせる事ができる。なぁ、バイ。俺はお前が泣くと、辛いんだよ。どうしようもなく、辛い。

 

「あーあ、全部飲みやがって。俺も飲みたかったな」

「もと、もと。俺が買った、やつ、だし」

「そうだけどさぁ、一緒に飲みたいじゃん」

「…………また、買ってくる」

「いいよ。あんな高いやつ」

「買ってくる!」

——だから、一緒に、

 

 言いかけたバイが、またしても吐き気を催したのか、俺の体に向いていた頭を水場に向けようと離れかけた。その体を、俺は自分の方に無理やり押し戻してやる。一瞬、バイが信じられないというような目で俺の方を見た。

 

「っヴぇっけほ、げほっ」

 

 けれど、そんなの俺は知らない。俺はそのまま自分の体でバイの吐物を受け止めると、ゆっくり背中を撫でてやった。

 

「お前、明日二日酔いすごいだろうなぁ」

「ば、ばかじゃ、ねぇの」

「ん?なにが」

「ふく、よごれた」

「洗濯すればいい」

「しゃわ、水しか、出ねぇくせに。かぜ、ひくぞ」

「そんなの、すぐタオルで拭けばいい」

「ううう」

 

 バイは俺の服の裾を握り締めながら、今度はハッキリと泣いていた。そう、服は洗濯をすればいいし、体は洗えばいい。熱が出たら、大人しく寝てればいい。

けれど、バイを今こうして抱きしめてやれるのは、俺しかいない。

 

「このズル休みめ。きっと、明日も二日酔いで辛いだろうから、ズル休みしろ」

「うっ、うっ、うっ。ふ、二日、よいなんて。ぜんぜん、なんて、こと、ない」

「でも、休め」

「へい、きだ。俺は、このまま。あ、あらしの中、ふね、だって乗れる。ぜんぜん、へいき。こんなの、へいき」

「そっか。平気か」

「……う」

 

 う。という、短い頷き。

あぁ、凄いな。お前はこんなにゲロゲロ吐きながら、大海原に大航海にだって出れるのか。俺じゃ考えられない。想像もつかない。凄いな、本当に。

“お前ら”は、本当に凄い人たちだ。

 

「でも、休め。だってさ、今日はお前と徹夜で話さなきゃならない」

「……え」

「読んだんだろ?続き。一緒に教本の読み合わせしなきゃ」

「……!」

 

 俺の言葉にバイはパッと表情を明るくすると、コクコクと勢いよく頷いた。あぁ、そんなに頭を振ると、また。

 

「っぅうええ」

「あーぁ。まずは一旦、吐き終わらないとな」

「はや、はやく、はなす」

「ハイハイ。ったく」

——-イマナイタカラスガモウワラッタ。

 

 バイの吐物塗れになりながら、俺はバイの頭をソッと撫でた。今は少しでも笑顔で居て欲しい。

 

 けれど、その言葉を明日からバイに対して言えるか分からない。もしかしたら、もうバイは俺の前には二度と現れなくなるかもしれないのだ。

 そういう事を、俺は明日。バイにするだろう。

 

 だから、今だけは、最後くらいは。

バイの笑顔を見ておきたい。

 

「バイ、窓掛。ありがとな」

「ん」

 

 俺は部屋に掛かっていた、あの日、俺が欲しくて声を上げられずに終わった星と月の窓掛を思って目を閉じた。

 

 

 目を閉じて、ここでは見えない“月”を想った。

 

 

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