その言葉を吐いた瞬間、俺の頬に熱い衝撃が走った。どうやら、俺はバイに叩かれたようだ。
ただ、その手は拳ではなかった。
パシンという乾いた音。頬に走る痺れるような痛み。後に襲ってくるヒリとした熱さ。
どうやら俺はバイに平手で叩かれたらしい。
よく見れば、そこには、先程まで獣のような目をしていたバイは居なかった。そこに居たのは大人の女性のような顔で、目に涙を浮かべ、もう一度手を振りかぶるバイの姿だった。
「そんな事、お前に言われなくったって分かってる分かってる分かってる全部分かってる!!!」
「分かってない!本当は好きでもない、飲めもしない酒を無理やり飲んで!つわりの真似事なんかしてるお前は!なんにも分かってねぇよ!?」
「っっあああああ!!言うな!言うな!言うな!」
悲鳴が上がる。バイの悲鳴だ。悲鳴が上がる度に、俺は頬を幾度となく叩かれる感覚を、どこか他人事のように感じていた。
酔っている。俺は、酒に、酔っているのか?
痛い、痛い、痛い。叩かれた頬は全く痛くなんてないのに、俺は顔を歪めて涙を流すバイに、痛くてたまらなかった。
「おい!いい加減お前らやめろ!」
「トウも!その手を下ろせ!やめろ!」
周りが騒がしい。もう、何が何だかわからない。目の前でボロボロと涙を零すこの人の涙を、俺は拭ってあげるまで、俺は止まれない。
もう少し、もう少しだけ。
「なんにも知らない癖に!なんにもしらないくせに!おにいちゃんじゃないくせに!おにいちゃんは知らないくせに!私が一番つらかった時、傍に居てくれなかったくせに!しらないくせになにもしらないくせにしらないくせに!!」
「トウに聞いたよ、知ってるよ」
「そんなの……!」
知っている?
あぁ、笑わせるなよ。俺。知ってるなんてよく言えたな。
本当は何も知らない。俺はトウから“情報”だけを貰った。それだけだ。だから、何も分からない。
「しってるわけない!わかるわけない!」
——叩かれる、叩かれる。
インが死んで。数年後、二人は結婚して、幸せに暮らした。子供が出来た。幸せだった。
名前をたくさん考えたけれど、決めきれなかった。顔を見て決めようと二人で話した。子供が生まれた。
男の子だった。
けれど、その子供は普通はあるものが体の中で非常に小さすぎた。
心臓だ。心臓が小さくて、生まれた瞬間に、もう数時間後には死んでしまうと言われた。
「おにいちゃんじゃないくせに!おまえはあのときいなかったじゃないか!」
——-何度も何度も叩かれる。
子供は死んだ。名前すら付ける暇もなかった。ニアの腕の中で死んだ。
そして医者から更に辛い事を言われた。
もともと子供が出来にくいと言われていた所に、その出産は、ニアにとって余りに大きな負担だった。
もうニアは子供が産めないと、ハッキリ言われた。言われてしまった。
「よんでもへんじもしてくれなかったじゃないか!なんかいもたすけてっていったのに!」
——-涙が流れる。目の前の人の頬から。
フロムは言った。
二人でいいじゃないか。二人で幸せになろうと。
ニアは「そうね」と言った。
家に戻り、普通の毎日が過ぎた。ニアは笑顔でトウを見送った。「いってらっしゃい」といつものように言った。
けれど、その日。「おかえりなさい」とニアが言う事はなかった。
ニアは自殺した。
ニアはあっさりと死んでしまった。
フロムは思った。自分が間違ったのだ、と。あの時、あぁ言ったのがいけなかったんだ。こうしたのがいけなかった。振り返れば、間違いだらけのような気がした。
最終的には、自分のせいで、ニアが死んだと。
誰も出迎えてくれる事のなくなった家の中で、フロムは思った。
——–たくさん、たくさん、流れている。
また、泣き止んで笑ってくれるのなら、今は、たくさん泣いておけ。
イマナイタカラスガ、モウ。