163:寝物語

「アウトォォォ!」

「っぐふは!!」

 

 その瞬間、眠っていた俺の意識は激しく引っ張り上げられた。そりゃあもう、物凄い勢いで。

 余りの衝撃にカッと目を見開くと、俺の眼下には燃えるように真っ赤な髪の毛の塊があった。一瞬、その“赤”に俺は自分の体が燃えているのかと錯覚する程に、俺の頭は完璧に寝ぼけていた。

 

「バイ。アウトが潰れているぞ」

「ぐへぇ」

「っうわ!?アウト、お前何潰れてんだよ!?」

 

 理不尽!

 俺はパッと俺の体から離れ「コイツ、ひ弱過ぎじゃね」と、のたまってくるバイに、半分夢の中だった意識を、急いで現実の俺の元まで呼び起こした。

 

「お前みたいなデカイ男に寝てるとこ、全身全霊で体当たりブチかまされたら、俺みたいな一般人は漏れなく潰れるんだよ!?」

「声も普通に出せるようになってんじゃん!良かった!あんなダミ声、聞いてられねぇもん!」

「お前の聞き苦しさが改善された事に対する良かった、かよ!?せめて、この場くらい!俺の回復に対して良かったと思えよ!?」

「あはっ!すげぇ、うるせぇ!」

 

 最早俺の言う事になど、何一つの反応を返す事などしないバイは、やっぱり末っ子の自由奔放さを遺憾なく発揮していた。

 あぁ、お前も元気そうで何よりだ。

 

「お前、激しく吐物をまき散らすし、糞尿も洩らすし、挙句痙攣し始めるし……それ見て俺も貰い吐物するし。あの後、本当に掃除が大変だったんだぞ。……トウが」

「トウが!?」

 

 どこかあっけらかんとして口にされたその言葉に、俺はバイの後ろから、いつもの調子で苦笑するトウに勢いよく目をやった。

 

 いや、確かに吐物と汚物の話はアボードにも聞いていた。その世話をしてくれたのがウィズだとも聞いた。

 なら何か?ウィズが俺の体の方の面倒を見ている間、店の汚物吐物その他諸々の掃除は、全部トウがやったという事だろうか。

 いや、確かに誰かがせねばなるまいが、まさか。

 

「え……ほんと?」

「ああ、本当だ。まぁ、その……うん」

 

 そう、俺を見て気まずそうな表情を浮かべるトウに、俺はベッドの上で毛布を頭からかぶって避難した。いや、本当にもう考えまい考えまいとしてきたが、俺は一体、何て事をしてしまっているのだろう。

 俺の吐瀉物と汚物で汚れたモノを掃除したトウでこれなら、俺の体の方の世話をしたウィズとは、二度と顔を合わせられるような気がしない。

 

 この現実に向き合うのは、ちょっと、いや、かなり心への負担が大きい。

 

「……ごめんなさい」

 

 毛布の中で真っ暗な闇を手作りしながら、俺はそう言うので精一杯だった。それ以上何が言えるというのだろうか。

 まだアボードなら良い。アボードは家族故、それこそ何を恥ずかしく思う必要もないくらい、“様々”を共にしてきたのだから。

 

 けれど、まさかのトウって。あんなに怒らせて、今にも射殺さん勢いで俺を見ていた男に、最終的には俺から出た汚物の掃除をさせるとは。

 

「本当に、ごめんなさい」

 

 その謝罪が、汚物の掃除をさせた事に対するものか、それとも“あの”出来事に対するものなのか、言葉にしていて、口にする俺すら分からなくなっていた。

 すると、布団越しにポス、と何かが触れる感触を、俺は緩やかに感じた。

 触れた部分が暖かい。

 

「いいよ、気にしてない」

「……それでも、ごめん」

 

 本当は“ごめん”なんて言うべきじゃないのだ。

 俺は許されようとしてはいけないし、許されて楽になんてなろうと思っちゃいけないと、分かっているのに。

 俺は口をついて出る謝罪を、止める事が出来なかった。

 

「むしろ、俺がお前に謝りたいくらいだ。悪かったな」

「なんで、トウが」

 

 毛布越しに触れる温もりが、少しだけ増す。これはトウの手だ。トウの大きな手。

 

「俺が弱いせいで、お前に……アウトに、辛い役目を押し付けたな。本当は、俺がしなきゃならなかったのに」

「…………」

「あと、やっと分かったよ。お前が“イン”じゃないって。インは例え嘘でも、ニアにはあんな事を言えない。インは……優しくて、真っ直ぐで、一途で、それ故に変化に弱かった。変わる事を、極度に恐れていた。お前とは、そこが違う。全然、違う」

 

 布団の中の闇に紛れながら、初めてトウの口から聞く“イン”という人間についての話に、俺は思わず目を見開いた。

 

 イン、あぁ、お前。そういう奴だったのか。はじめまして。

 

 そんな、気持ちだった。

 そして、こうして俺に対し“イン”の名を何の苦も無く出してくれるという事は、本当にトウの中で、俺はインとは別の人間になれたという事だ。

 

 しかも、別の人間になっても、こうして俺の傍に立ってくれている。今までのように「お前は違う」と離れて行ったりしない。

 その事実が俺にはたまらなく嬉しく、たまらなく心を満たしていった。

 

「アウト!」

「うわっ!?」

 

 俺が布団の中で何も言えずに居ると、またしても俺が頭からかぶっていた毛布が勢いよくはぎ取られた。誰の仕業かなんて見なくとも分かる。

 

「バイ!お前なんでも急にはよせ!?ビックリするだろうが!」

「いや。お前、泣いてんのかと思って」

 

 バイはケロッとした調子でそう言うと、俺の蹲るベッドの脇にドカリと腰かけた。このバイも、トウやアボードまでとは言わないが、体格が良い為、ベッドが勢いよく軋む。

 もう、その揺れで気持ち悪さを感じる事はなく、俺の体はやっと“普通”に戻り始めているようだった。

 

「誰が泣くかよ」

「あれぇ?少し目が赤くない?なぁ?」

 

 そう言ってからかうようにクスクスと笑ってくるバイに、俺はベッドの上から少しだけバイと距離を取るように移動した。しかし、すぐにバイの体は俺を追うように迫ってくる。

 その時のバイの目は、最早、男とか女とか関係のない、なんだか不思議な目をしていた。

 

 それが逆に、俺には若干の恐怖を覚えさせる。

 

「さて、今日からお前が毎日眠りにつくまで、俺がとっておきの寝物語をしてやろう」

「ねものがたり?寝る時にする話ってことか?」

「いや、バイ。寝物語は違うだろう。俺とお前がするならまだしも」

 

 トウから、すかさず釘を刺すようなツッコミが入る。少し慌てているような気がするのは、気のせいだろうか。

 

「お前は黙ってろ、トウ。いいんだよ。寝物語で」

「良いわけあるか!?」

「なんだよ!?お前さっそくか!?盛りのついた犬じゃあるまいし!」

「早速じゃない!俺がどれだけお前を……!」

 

 どうやら、俺が死の淵を彷徨っている間に、二人は十分仲を取り戻しているようだ。

 あぁ、一体俺は何を見せられているのだろう。

 

 いや、見せつけられているのだろう。

 

「寝物語はいいよ。お話しされなきゃ眠れない子供でもあるまいし」

「はぁ!?聞けよ!そして俺が話し終えるまでは絶対に寝るなよ!?」

「それ寝かさない物語じゃん!?迷惑過ぎるわ!」

 

 なんと迷惑極まりないお話なのだろう。

 俺がはっきりと眉を顰めてバイを見ていると、急にバイの顔が俺に近づいてきた。

 

 そして、その一瞬の間に、俺の額に何か柔らかい感触が走る。ついでに言えば「ちゅ」と、何をしたかなんて分かりやすい程に分かりやすい効果音が後に続くではないか。

 

 あぁ、どうやら俺はバイから額に口付けをされたようだ。

 

「え……!な、なんで?」

 

 俺は思わずベッドの後ろに引き下がろうとするが、悲しいかな。それ以上ベッドに先はなく、俺はグラリとする体を支えきれず勢いよくベッドから落ちた。