ただ、混乱の極みだと言っても、思考停止などしていられない。
俺は、落ちた拍子に、ベッドの下から隠れるよう半分顔を出し、ベッドの上に居るバイや、その奥に立つトウを見た。
バイは愉快そうに笑い、トウは“あの時”以上にヤバイ雰囲気を醸し出している。
ここにはウィズもアボードも居ない。俺は今度こそトウに殴り殺されるのかもしれないのだが、それにしたって理不尽だ。
これは、アレか。
バイからの遠回しな、俺への復讐か何かだろうか。間接的に果たされる「お前は絶対に許さん!殺す!」という想い故の行動なのだろうか!
そんな、俺の戦々恐々とした気持ちなど、バイは全く気にした様子はなくパチパチと目を瞬かせながら、その目にキラリとした光を宿しつつ、カラッと口を開いた。
「お前、トウの事“お父さん”みたいって言ったらしいな」
「へ?」
バイの言葉に、俺は今朝方アボードとした会話を思い出していた。
確かに言った。言ったが、それをどうしてバイが知っているのだろう。
「今日、兄貴がトウの事、間違って“父さん”って呼んでた」
「さっそく!?」
いや、確かに俺は予言した。
いつか間違って呼んでしまう日が来るだろう、と。
けれど、その“いつか”が早くないか!?しかも、やっぱ今日は非番じゃなかったんだな!普通に仕事に行ったみたいだし!血税の無駄遣いと言ってごめんな!アボード!
そう、俺がチラとトウの方を見れば、トウは先程まで、その身にやつしていたヤバイ雰囲気を一旦納め、顎に手を当てて「ん?」と考え込んでいる。
「あぁ、アレか。急にアボードが“さん”付けして呼んでくるもんだから、一体何なんだと思ったが。あれは父親と間違えて呼んでいたのか」
「ったく。トウ、お前だけだよ。あんな焦った兄貴の言い訳をまともに信じてんのは。他の皆は、完璧に気付いてたぜ?」
———ままままま間違った!俺とした事が、急にお前の事“さん”付けで呼んじまったぜ!さっきまで、外部の客と会ってたせいだな!こりゃ!あー、まいった!まいった!
———勘弁してくれ。お前から“さん”付けなんて、なんか背筋に嫌なモノが走ったぞ。
俺はその時のアボードとトウの様子を想像してみた。
想像して、予想以上にアボードが可哀想な状態に陥ってしまっている事を思い、多少の申し訳なさに襲われる。
男の矜持!とか、上に立つ者は!とか、男は!とか。ともかく、そういうモノに拘り続けるアボードが、同僚に対し“父さん”呼びをかまし、周囲から生暖かい目で見られていたと思うと。
少し、笑える。
「俺、あの後、すっげぇ兄貴を問い詰めて聞いてみた。で、6発殴られた甲斐あって、俺は真実に辿り着いたんだ」
「6発も殴られながらよく引き下がらなかったな!?お前!凄いよ!?」
「6発も……アボードのヤツ、バイになんて事を」
「トウ!俺からすれば、バイのヤツが俺の弟になんて事を……だからな!?恥ずかし過ぎる追求を後輩から受けて、本当に同情しかねぇよ!」
俺はベッドの脇から半分しか出していなかった顔を、首まで出して叫んだ。
ここは、いくらバイが手酷くアボードから殴られたとしても、一片も同情は出来ない。殴られてしかるべき事を、このニヤつくバイはやってのけたのだから。
「そしたら兄貴が言ったんだ!アウトがトウを自分達のお父さんみたいだって言ったから、間違って呼んじまったんだって!アウトのせいだって!なぁ、アウト!このトウが、お前らのお父さんと似てるから、親が恋しくなったんだろ!?」
バイはベッドの上で、四つん這いになりながら、俺の方へと近づいて来た。そして、ベッドの淵、すなわち俺の目の前までやって来たかと思うと、次の瞬間、俺の視界はバイでいっぱいになった。
「な、なに?」
「ふふふ。俺、良い事を思いついたんだー!」
どこか、キラキラの光を放つその目は、まるでキラリと夜空に輝く星のようだ。“期待”という星が、バイの目の中に流れている。たくさん、まるで流星群のように。
一体なんだと言うんだ。バイは一体何を俺に期待しているのだろうか。
「……俺は、まだお父さんって年でもないんだが」
「うるせぇ!トウ!お前は余計な事を言うな!黙ってろ!」
「……一体何歳に見えるんだ、俺は」
「あー、うっせ!……なぁ!なぁ!アウト!お前、お父さんとお母さんが恋しいんだろ?そうだろ?恥ずかしがるなよ!」
いや、別に恋しくなどなっていない。
お父さんが死んだのだって、成人してからの事だし。もう5年は経つし。
俺はそう言ってやりたかったが、なにせ、こんなに嬉しそうな表情を浮かべるバイの姿だ。
こんな笑顔、俺の前で二度と浮かべてくれるなんて思っていなかった為、なにか無下にする事が憚られて口を開く事が出来ない。
かといって、先程の口づけがまだ尾を引いている俺は、近寄って来たバイに、顔をベッドの下に半分隠した。
「トウをお父さんって呼ぶなら、もちろん俺がお母さんだよな!?」
「え゛っ!?」
余りに予想外な台詞に、思わず俺の声が酒焼けしたダミ声に戻る。
そして、俺の驚きの声と呼応するように、先程まで「解せん」と、頭を抱えていたトウの顔がパッと明るくなった。
あぁ、トウって穏やかで、度量の大きな男らしいヤツだと思っていたが、案外そうではなかったらしい。
まぁ、バイ限定なのだろうが。
「ほら!坊や!おいで!俺の事お母さんって呼んでいいんだぞ!」
「勘弁してくれ!?」
そう、両手を俺の方へと差し出してくるバイに俺は思わず叫んだ。あぁ、叫ぶさ。何が悲しくて自分よりも体格の大きな、顔の良い年下の男を“お母さん”なんて呼ばなきゃならないんだ。
これは一体なんの冗談だ!
「ちょっ!やめ!やめろ!」
「ほらほら、おいで。お母さんがとっておきのお話で眠りの世界へ誘ってあげよう。今ならおやすみの口付けが付きます!」
「それなら、お父さんも一緒に入るべきだろうな」
そう、バイとトウがじりじりと俺ににじり寄ってくる。
あぁ、さっきのアレは俺への「おやすみの口づけ」だったのか。
そして、今度の「坊や」は本当に「坊や」だ。性行為の経験値の有無を指す「坊や」ではない。可愛い我が子に使う、本当の意味での「坊や」。
「っははは!やめっ!やめろよ!二人とも!」
「照れるな照れるな。あとで一緒にお風呂にも入ろうなー!体の洗いっこしよう!」
「それなら、お父さんも一緒に入るべきだろうな」
俺はもう、一生俺に笑いかけてなどくれないと思っていた友人2人に抱きしめられながら、もう、何が何だか分からないままに笑い続けた。
その中で、バイから降り注がれる口づけの嵐に、なんとも言えない気持ちになったが……。
まぁ、もう、いいだろ。
だって、こんなにバイが楽しそうに笑っているのだから。
イマナイタカラスガモウワラッタ。
俺は呪文のようなソレを心の中に思い浮かべながら、笑い過ぎて、笑い過ぎて、少しだけ目の端っこが湿っていた。
あぁ、笑い過ぎてちょっと泣いてしまったらしい。
俺は二人に気付かれないうちに手の甲でサッとそれを拭うと、二人の腕の中で大いに笑い続けた。
「っふ、あははっ!っくすぐったい!くすぐったい!」
それは、次の瞬間、急に開いた扉の先に立つウィズが現れるまでの、ほんの数刻の出来事であった。