166:すれ違い

 

『お前、医者になる勉強までしてるんだって?凄いじゃないか。まったく、働き者で頭が上がらないよ。おじい様はそういうお前に目を付けて、首都にある帝国医師議会に入らせるとおっしゃっていた』

『……俺は、別にそんな事の為に』

『何の為にお前が頑張ってきたかは……まぁどうでも良い。けれど、お前は必ず成人の儀に入る前に首都に戻される。もう、いつもみたいに勝手を言って此処に戻って来る訳にはいかなくなるだろうな』

 

 心臓が嫌な音を立てる。

 そう、分かっていた。いつかは、この町に帰る事が出来なくなる事は、頭のどこかで分かっていたのだ。

 

 帰れないなら、と。俺はインを連れて行こうとしたのだ。インの手を引いて、インを首都へと連れて行き、ずっと俺の傍に居てもらおうと。

 

『あぁ、そうだった。お前、今度帰ったら見合いさせられるんだってな?相手はどこだったか?まぁ、どこでも良い。名家の娘である事は確かだろう』

『……っく』

 

 いやだいやだいやだいやだ!!

 俺はもうビロウの言葉の全てを拒否するように、ビロウから顔を背けた。

 あぁ、誰だ。子供は不自由で、大人が自由なんて言ったヤツは。

 

 大人に成ればなる程、俺は俺の望みから遠く離れていく。

 俺は一体何の為に賢明にここまで走ってきた?手を伸ばしてきた?

 

 顔を逸らす俺に、ビロウは執拗に言葉で追いかけてくる。いや、言葉だけではない。背けた俺の視線を追うように、自身の立ち位置まで移動して俺の苦しむ顔を、その目に収めようとしてくる。

 その顔に浮かべられる笑みの、その嫌らしい事と言ったら。

 こんな腐った奴と、顔が似てるなんて、本当にあり得ない。

 

『お前、インと仲が良いもんな?インの事が心配なんだろ?心配するな。俺がちゃんと何不自由ないように面倒を見てやるさ』

『……なに』

 

 インの名が出た瞬間。

 俺は背けていた目をしっかりとビロウに合わせた。そんな俺に、一瞬ビロウは怯んだ様子を見せたが、愚かにも、ビロウがその口を閉じる事はなかった。

 

『イン。さすがニアの兄だ。男にしては、まぁマシな顔をしている。頭は悪いが、それもまた飼うにしては一興だろう。愛玩動物が変に頭がキレても困るからな。貴族の嗜み。男だろうと、女だろうと、余裕で扱えるようにならな……っく!』

『おい、ビロウ。お前、そろそろその汚い口を閉じろよ』

 

 余りにも聞いていられない汚らしい言葉の数々に、俺はビロウの胸倉を掴むと、一気にビロウの両足が地面から離れるくらいまで持ち上げてやった。

 

『おい、ビロウ。お前がここの統治の後釜として呼ばれたのなら』

 

 本当にコイツ。死ねばいいのに。

 そこまで思って、俺は良い考えを思いついた。持ち上げられた先で、ビロウが俺の手にこれでもかという程爪を立てる。

 痛くない。全くこんなの痛くない。ジワと、ビロウが爪を立てる俺の手から血が滲む。

 

『お前が死ねば、俺はずっと此処に居て良いって事だよなぁ?』

『っ!』

 

 俺の言葉にビロウの目が一気に見開かれる。

 あぁ、こんな単純な事に、何故俺は気が付かなかったのだろう。コイツが居るから、俺は首都へ戻されるんじゃないか。

 コイツのせいで、コイツさえ居なければ。

 

——–オブ!ビロウは良い奴だったよ!

 

 耳の奥でインの声が聞こえる。

 聞こえた瞬間、俺は掴んでいた腕から力を抜き、ビロウを道の脇に投げ捨てた。

 投げ捨てた先で、ビロウが必死で呼吸をし、咳き込む音が聞こえてくる。

 

 俺は一体、今、何をしようとしたのだろう。

 

 こわい、こわい、こわい。

 

『っイン』

 

 俺は走った。

 今、どうしてもインに会いたかった。

 ビロウが死んでも、きっとまた別の誰かが此処に連れてこられるだろう。ソイツを殺しても、きっと同じ。

何があっても、俺は、もうすぐ、インと――。

 

『イン、イン、イン、インッ!』

 

 走って、走って、走って。

 呼吸もままならない中、俺はレイゾンの畑の一角で、汗を拭いながら畑仕事をするインを見つけた。

 もう、そんな当たり前の姿を、この目で見る事が出来るだけで、幸せだ。幸せで、幸せで、不安になる。

 

『インっ!』

『っオブ?』

 

 俺はインが此方に気付いた瞬間、飛び込むようにインに抱き着いた。

 それはいつもの、インを腕に閉じ込めるような抱き締め方ではなかった。情交の時のソレとは異なり、この時の俺は、インに抱きしめて貰いたかった。

 

『いん、いん、いん』

『オブ……!どうしたの!?泣いてるの!?なになに!誰かに何かされたの!?』

『いんっ、こわい。こわいんだっ……!』

『……怖い?なにが怖いの?言ってよ!俺が怖いやつからオブを守るから!』

 

 俺はまるで“あの時”のようにインに縋って泣いた。

 

 あの時。

 インを失わずに済んで、心から安堵したあの日、あの時のように。

 あの時と違うのは、居なくなってしまうのがインではなく、俺自身だという事。

 

——–怖い、怖い。イン、助けて、助けて。僕を、助けて。

 

 俺はうわ言のように繰り返しながら、インに縋りついて泣いた。追ってくる不安から逃げたくて、俺は、僕は。

 

『イン、お願い、おねがいします。ずっと、ずっと。一緒に居てくださいっ、もうはなれたくない、もういやだ、もう、こんなのっ。もうっいやだ、いやだ、いやだ!!』

 

——–あ゛ああああああ!

 

 俺の慟哭は、全てインの胸の中へと消えていった。そんな俺の震える体を、インは力強く抱きしめると、俺から放たれる悲嘆を全てその身に受け止めるように、背中を優しく撫でてくれた。

 

 

『オブ、オブ、オブ。いっぱい泣いていいよ。オブは、頑張りすぎだから。よしよし。一緒に居るよ。俺とオブはずっと一緒。だって俺がオブと一緒に居たいって思ってるもん。オブもそうなんでしょう?二人共一緒に居たいのに、離れる必要ない。だから、』

——–だいじょうぶ。

 

 イン、イン、イン。

 俺は、インからのその言葉で、更に心の中がキュウと嫌な萎み方をするのを感じた。

 違う、違うよ、イン。

 

 一緒に居たいと互いが望んでも、どうにもならなくなる時は来る。

 ねぇ、イン。

 いつまでインは“子供”で居るつもり?

 

 

 その日、俺は初めてインと心がすれ違った気がした。