175:記憶の穴を埋める時

 

      *

 

 

『いや、ただの通りすがりです。でも、彼には、以前も一度』

『ヴァイス!助けてくれ、マルコが収容所に、連れて行かれるんだ!もう無理だ!フィード人の虐殺を、私は止めなければならないっ!私を、連れて行ってくれ!頼む!頼むよ!』

 

 そう言って蹲りながらも、焦点が合わないながらも、必死に立ち尽くす少年の体へと、初老の男性が縋る。縋りつく。

 縋りつかれた少年を俺が見ると、彼は、慌てるでもなく、ただただ優しい目で彼を見ていた。それは、まるで仲の良かった友人と、笑顔で「さよなら」と言うような、少しの切なさを湛えたような、優しい目だった。

 

『そうだね、マルコを助けないとね。もう、キミもいかないと』

 

 その言葉に、俺はこの男の子も、以前の俺のように一旦は彼の言葉に同意をして、平静さを取り戻させようとしているのかとも思った。

 けれど、以前とは異なり、もう目の前の男性は、そんな調子で“戻って”これるような状態ではない事は、素人の俺でも分かった。

 

『あぁ、どうしよう!この人は以前も、この通りで錯乱していたんだ!早く教会に連れて行かないと!キミも手伝ってくれるかな?』

『ヴァイス!ヴァイス!お願いだ!助けなければ!私が行かねば!行かないと!』

『落ち着いて、どうか。落ち着いてください!』

 

 錯乱するその男性が、しきりに“ヴァイス”と呼ぶ、その少年。少年のような彼。俺はこのままでは、この少年が危ないと思った。

 錯乱したこの初老の男性の縋る手が、いつ錯乱に錯乱を重ね、暴力へと発展するか分からない、と。

 

『キミ、少し下がって!ここは俺がなんとかするから、お願いだ!神官を誰でも良いから呼んできて!これはもう、俺達じゃ対処できない!』

 

 俺は彼から錯乱する男性を守るべく、体を二人の間に入り込ませようとした。

 けれど、それは彼の手で止められた。止められた時、彼の手はハッキリと俺の下腹に触れていた。

 

 嫌な記憶と共に、ゾワリとする感覚が走る。けれど、俺には嫌悪になど浸る暇などなかった。少年のような彼は触れた瞬間、その大きな目を零れ落とさん勢いで見開くと、次いですぐに俺の下腹部から手を離して、言った。

 

『大丈夫』

『へ?』

『大丈夫、僕が。彼の担当主治医の“神官”だから』

『っ!』

 

 少年のような彼、つまり”ヴァイス”と錯乱する男性に呼ばれる彼はハッキリと言った。俺は信じられないまま、ヴァイスという少年を見つめる。

 すると、ヴァイスは、それはそれはもう嬉しそうな顔で、俺に向かって微笑んだのだ。

 

『会えて嬉しいよ。僕の新しい“お気に入り”』

『な、に』

 

 けれど、その俺の戸惑いを込めた『なに』に対し、もうヴァイスは返事をしなかった。

 

 ヴァイスは、その俺達のやり取りの間も錯乱を続ける男性に向き直ると、縋る男性に視線を合わせるように、その場に腰を下ろした。

 

『いいのかい?ねぇ、僕の“お気に入り”。キミが今のこの状態で、マルコに出会う方法は、ただ一つしかない。その為には、キミはこの世界輪を捨てなければならないよ?』

『ああ!ああ!そうだ!僕は、行かないと!マルコの所へ!マルコの居ない世界なんて、意味がない!』

『この世界の愛する者を捨てても?』

『僕が愛するのはマルコだけだっ!』

『そう……人間の愛って、不思議だね。こうして、さも不変であるように見せかけて、その不変により、別の不変であった筈の愛を難なく捨てる。矛盾している。本当に、人間って面白い』

 

 ヴァイスは歌い上げるように、何かの歌詞でもなぞるように言うと、初老の男の顎に親指と人差し指を添え、その唇に口付けを落とした。

 

 あまりの状況に、俺がその場に固まって立ち尽くしていると、初老の男性はその場にパタリと倒れ込み、そして俺達の周りは突然の静寂に包まれた。

 

 おかしい、今ここは、人の賑わう休日の皇都の筈なのに。

 俺達の周りには、もう、いや、既に最初から誰も居なかった。どんなに騒ごうと、誰も声を掛けてくる事もなかった。

 

『ねぇ、キミ!』

『っへ?な、なに?』

 

 急に先程までの、悲しい歌でも歌うようなヴァイスの口調から一転して、倒れた初老の男性を足元に、彼は喜びの歌を歌い始めた。

 その感情の落差に、俺は心底戸惑うしかない。

 

『キミも“そう”みたいだね!もう、この “お気に入り”も、心が終わってしまって、どうしようと思っていたんだ!会えて嬉しいよ!』

『心が、おわる?彼の……?大丈夫なのか?早く、治療、しないと』

 

 心が終わるという、何やら恐ろしい言葉に、俺はとてつもなく心が揺れるのを感じた。人間は、心が終わってしまったら、一体どうなる?

 

『……怪我や病気の治療と違って、心の治療というのはね、きっと君たち人間が思っている“治療”とは違う。けれど、彼の望みを叶える事が彼の心を救うのであれば、僕は治療する。それが彼の、僕の大事だった“お気に入り”の心からの望みだから』

『…………それって、どういう』

『彼をマルコとの思い出というマナの中に鎮めるしかない。縁があれば、彼はまたマルコとも、6つの輪の中で、また巡り合う事もあるだろう』

 

 最早、ヴァイスが何を言っているのか全くわからなかった。ただ、俺は一つだけ、本能的に理解してしまった。

 このヴァイスの足元で、目に一筋の涙を流しながら倒れる初老の男性が、もう、この世界での生の炎が消えてしまう直前なのだという事を。

 しかも、自らの手で幕引きをしてしまうのだろうという事を。

 

 マルコに会う為に、彼は、今の自分を捨てるのだ。

 今の愛する人を捨てるのだ。

 いや、ちがう。

 

——-ありがとうございますっ。主人も、きっと喜ぶと思います。

 

 この時、俺の脳内に過った一人の女性は、まだこの時の俺が知る女性ではない人間。ただ、今この記憶の穴を埋め始めた俺は、知っている女性。

 

 この男性は、もう“捨てた”のだ。

 もう、居ないのだ。マルコに会いに、既に彼は行ってしまった。あの人を、捨てて。あっさりと、マルコとの記憶の眠るマナの中へ。

 

『キミ、名前は?』

『俺、俺は……アウト』

『じゃあ、アウト。必ず、また会おう。僕はキミとの再会を、心待ちにしているよ』

 

 そう、ヴァイスという少年が小さく微笑んだかと思うと、俺がほんの一瞬、それこそ瞬きをしている合間に、今度はヴァイスの唇は俺の唇へと触れられていた。

 

 ちゅっ

 

 その音と共に、俺の意識は急に皇都の通りから、一気に柔らかいベッドの上へと引き戻される。グンと、記憶の中、その奥深くに眠っていた場所から“今”に戻る瞬間、ヴァイスの方を見てみると、彼は笑顔で俺に手を振っている。

 

 そして、気付けば目の前には、同じ笑顔と動きで、俺を出迎えるヴァイスの姿。

 

 

「おかえり、また会えたね。アウト!こうして会えた事を嬉しく思うよ!ここまで来たのは、キミが初めてだ!」

 

 

 

      *

 

 

 

「…………ヴァイス、これは一体?」

「聞きたい事が山ほどあるのは僕も同じだよ?アウト。君は僕にとっても謎だらけさ」

 

 互いに互いを見つめ合う俺達は、同じ目をして互いを見ていた。俺も、ヴァイスも、互いを“得体のしれないナニか”として、認識し合った。

 どうして俺が、そんな目でヴァイスから見られているのかは不明だが、謎が多すぎて、ともかく疑問や感情を吐露する言葉が口から詰まって出て来ない。

 

「色々と話したい事は山ほどあるんだけどさ、もう今日は時間がないみたいだ」

「え?」

 

 ヴァイスの言葉に、俺が何の事だと首を傾げかけた時。

 部屋の外から、勢いよく此方へと駆けてくる足音が聞こえてきた。そして、聞こえたという認識が、脳内にジワリと生き渡った時には、もう、部屋のドアは勢いよく開け放たれていた。

 

「アウト先輩、お見舞いにきましたー!」

「アウト、アバブちゃん連れてきたよー!」

 

 そう言って部屋に飛び込んで来た二人は、最早今となっては一番の仲良しの友達のようにニコニコと並び立っている。

 あぁ、俺の寝ている間に、二人はこんなに仲良くなっていたのか。

 ほんと、皆、俺の居ない所で楽しそうにして。本当に、良かった。

 

「…………」

 

 その後ろから、未だに何かに引きずられるような面持ちで部屋に戻ってきた、ウィズの姿に、俺は思った。

 

 

———僕は、行かないと!マルコの所へ!マルコの居ない世界なんて、意味がない!

 

 ウィズはあの男性と同じ顔をしている。

 

———僕が愛するのは、

 

 ウィズが愛するのは、

 

 

「二人共!なんだよ!いつの間にそんなに仲良くなったのか!」

 

 

 インだけだ。