186:この手だけは

———–

——–

—–

 

 

 インの手が俺の手を必死に握り締めている。ぎゅうぎゅうと。必死に握り締める。けれど、その手を俺が握り返す事はない。

 

 インは俺の前をズンズンと進みながら、森の中を行く。この道はいつもの道だ。

 二人の秘密の場所へと続く道。

 

 あぁ、もう随分と秋も深まってきた。ついこないだまで、暑い暑いと言っていたのに。どんどん、どんどん時は進む。

 この森を駆け巡ったあの日々も、もう随分と遠い昔のようだ。遠い未来を夢見て、それこそ夢のような事ばかりを語り合っていた。

 

 つい、最近まで。現実から目を背けるように。

 大人になるのを拒むように。

 

『オブ』

『……なに』

 

 俺がぼんやりとしている間に、いつの間にかインと僕は、あのいつもの大木の大穴の前に立っていた。ここで何度僕達は身を寄せ合って語り合っただろうか。肌を重ねあっただろうか。

 

『オブ、話して』

『インが俺を此処に連れて来た癖に、おかしな事を言うね。俺はインに用事なんてないよ』

『オブッ』

 

 俺の驚くほど冷たい言葉に、インの表情が歪む。俺のこんな冷たい態度は、出会った頃以来、初めてではないだろうか。そう、どこか他人事のように、俺は思う。

 ただ、歪むインの表情を見ると、どうにも堪らない気持ちになってしまう。

 

 あぁ、俺はどうなってしまったんだろう。俺を苦しめるインを、俺は苦しめている。その感覚に胸のすくような気分になっている。

 とうとう、俺はおかしくなってしまった。インが大切だった筈なのに、今は憎らしくて憎らしくて堪らないのだから。

 

『オブ、聞いたよ。もしかしたら、次に首都の家に帰ったら、もうオブは帰ってこれないかもしれないって』

『そんなの、誰に聞いたんだよ』

 

 俺は答えの分かり切った問いをインに向ける。

 そう。わざと、聞いている。聞きながら、俺の脳裏に過るのは数日前、部屋の窓から見た光景。

 

『ビロウ』

『っは』

 

 ビロウがインと顔を寄せ合って話していたあの光景。俺は、アレを思い出す度に、腸が煮えくり返りそうになるほどの熱い何かが込み上げてくるのだ。

 あの日から、ずっと。ずっと。

 

『良かったじゃないか。イン。ビロウと随分仲良くなったみたいで』

『今はそんな話し、してないよ。オブ』

 

 わざと聞いた癖に、インの口から出てきた“ビロウ”の名に、やっぱり俺はインから掴まれていない方の手を、これでもかという程握り締めた。

 インにもっともっと俺を怒らせて欲しかった。

 俺を怒らせて、怒らせて、いっそのこと――

 

 インを嫌いになりたかった。

 そうなれば、俺はこの苦しみから解放される。

 楽になれる。全て、終わらせられる。

 

『じゃあ、何の話をするって言うんだ。俺はインと話す事なんて1つもない』

 

 俺はインに、これでもかという程冷たい目を向けた。そうすれば、インの表情はまた悲しい色に染められると思ったのだ。

 俺はその顔が見たい。

 俺の言葉で悲しみ、涙を流し、心を揺さぶられるインが見たい。

 

 あぁっ!俺はとうとう、本当の悪いヤツになってしまった!

 俺に傷付けられて、もう今後、誰も信じられなくなって、悲しさの余り、誰にも心を開けなくなるくらい、俺はインを傷付けて傷付けて傷だらけにして。

 

 俺から離れても、俺だけの事を考えて生きればいい。

 そうすれば、ビロウみたいな奴が現れても、インはずっと俺のもの。俺が居なくなっても、俺だけのもの。

 

 いくら俺がインと共に未来を歩めなくなるからと言って、インが他の誰かの隣で楽しそうに笑う姿なんて許せない。そんなの絶対に許さない。

 

『オブ?ねぇ、オブ。俺はその手には乗らないよ。オブは俺を怒らせようとしてる。俺を怒らせて、オブも俺を怒って、喧嘩して、そして』

『…………』

『俺を、嫌いになろうとしてるんだろう』

 

 インの言葉に、俺は思わず目を見開いてしまった。そして、あっさりと見透かされていた俺の心に、俺は酷く狼狽した。

 そんな俺を、インは容赦ない程真っ直ぐな目で見つめてくる。

 

 

——-頭は悪いが、それもまた飼うにしては一興だろう。愛玩動物が変に頭がキレても困るからな

 

 

 耳の奥で、ビロウの言葉が反芻する。

 あぁ、俺は殺したいとすら思ったアイツと、まるで同じ思考回路を持っていた。そう、気付いてしまった。インに、気付かされてしまった。

 俺はまるでインを愛玩動物のように、自分の思い通りになる格下の生き物のように思っていた。

 この身が離れ離れになっても、心だけは俺がインを“飼う”。そう。浅ましい事を、思ってしまった事を、当のインからアッサリと突きつけられてしまった。

 

 インの癖に。

 いっつも“何も分かってません”みたいな顔で俺を見ていた癖に。

 どこまで俺を苦しめれば、気が済むのだろう。

 

『オブ。オブが俺を嫌いになる事なんてない』

『……っは、イン。インは本当にバカだね。俺の事、何もわかっちゃいない』

『オブは俺と離れたらダメなんだ。本当は分かってる筈だよね?オブもそう言ってたじゃないか』

 

 インの俺を掴んでいた方とはまた別の手が、俺の腕へと触れる。俺の眼下にインの必死な表情が映りこむ。

 その目が映すのは、俺だけ。俺の目が映すのもインだけ。

 互いが互いを見ている筈なのに、どうしてだろう。俺は今、インの見ている“未来”とは、全く別のモノを見ている気がするのは。

 

『イン、あの時の俺はちょっとおかしかった。少し、疲れてたんだ』

『オブ、あの時だけの事を俺が言ってるんじゃない。これまでのオブ全部を言ってるんだ』

『…………』

 

 そう言って俺の事を見据えるインの目は、やっぱりどこまで行っても真っ直ぐで。真っ直ぐ過ぎた。俺はこの目に見つめられるのが大好きだった筈なのに。

 今ではこの目で見られるのが辛い。後ろめたい。腹立たしい。

 

 

 

 イン、そんな目で俺を見るな。