『ねぇ、オブ。オブは俺が居ないとダメになる。それは俺だってそうだよ。それは、こないだのオブを見て思ったんじゃない。これまで一緒に居た時間全部を使って、オブは俺に教えてくれたんじゃないか。二人一緒がいい、ずっと一緒に居ようって。俺もそうだから。だからオブ』
『…………』
あぁ、言うな。それ以上何も言うな。
一人で勝手に覚悟を決めるな。俺を置いて、先に行こうとするな。俺はまだ何も覚悟なんて出来ていない。
そんな、真っ直ぐな目で、俺を見るな!
『ずっと二人で居れる場所を探そう。もう、首都には行かないでよ!お見合いなんかしないで!俺以外の人を隣に置かないで!ずっと俺と一緒に居て!ねぇ!オブ!』
『うるさいっ!うるさい!うるさい!うるさい!』
『オブ!』
俺の名を必死に呼ぶインの声が追いかけてくる。その声に、覚悟も何も出来ていなかった俺は、もう限界だった。その声が煩わしく思えて、耳障りで。どうしようもなく腹が立った。
だから、思わず手が出ていた。
インの手が添えられていた方の腕を振り払い。俺はインに向かって拳を振り上げていた。
振り上げられた拳が、インの頬へと吸い込まれていく。そして、次の瞬間には鈍い衝撃が俺の拳に走った。
あぁ、とうとう俺はインに手を上げてしまった。
『っつぅ』
『っ!イン!』
インは小さな悲鳴を一つ上げると、俺から振り払われていた方の手で、自身の頬に触れた。どうやら頬を殴った際に、唇も切ってしまったのだろう。インの口の端に、赤い、赤い血が溜まっていく。
「っいった」
「……イ、イン」
殴った拳が、嫌な震えに襲われる。俺はそれを隠すように、サッとその拳を自身の背に隠した。
俺は随分と成長した。体も力も、何もかも、もう大人になった。
それはインも同じだった。インだって大人になったのだ。いくら俺が力が強くなろうと、体がインより大きく成長しようと、インは俺の拳に倒れ込む事はなかった。
それどころか、インは最初に俺を掴んでこの森に引っ張ってきた時に繋いだ手を、未だに放す事はない。そして、俺の拳がインを傷付けるその瞬間まで、インの目が俺を捉えて離す事もしなかったのである。
インは本気だ。本気で“俺”との未来への覚悟を決めた。
『オブ、気が済んだ?』
『……っくそ!』
そう、俺を宥めるように尋ねてくるインに、俺は思わずインの掴んでいたもう片方の手を振り払おうとした。けれど、インはその手だけは離さないと必死なのか、先程のように容易に振り払う事はできなかった。
『オブ!俺達はまだまだ全然話せてない!俺は自分の気持ちは、今ので全部!今度はオブの気持ちを聞かせて!二人の気持ちさえわかれば、これから何をしないといけないかなんてすぐに分かる!ねぇ、オブ!オブの気持ちを聞かせてよ!俺と離れたくないって言ってよ!』
『黙れ!イン!お前は何も分かってないんだよ!?お前はバカで愚かで、何一つ俺の気持ちなんて分かってない!俺がこれまでお前のせいで、どれだけ苦しい想いをしていたのか知らないから!お前は何も知らない顔して待ってればいいかもしれない!けど、俺はそうじゃないんだ!』
俺は喚いた。喚き散らした。
こうなりたくなかったから、インを避けていたのに。“最後”くらい、笑って別れを言えるようになるまで、隠れていたかったのに。
……別れ?
俺はここまで来て自分の心の中に浮かんで来た言葉に、ひたすらゾッとした。俺は、もしかして、もう。インを諦めようとしていたのか。
——–オブ。お前、本当は分かってんだろ?
——–お前は、そろそろ首都に帰される。
——–おじい様の決定は“絶対”だ。
ビロウの言葉が次々と耳の奥へと響いては消える。そして、そんな事は、ビロウから言われる以前から、ずっと理解していた事だ。
おじい様の決定は絶対。俺はあの“家”から逃れられず、首都に帰され、見合いの末、見た事もない女と結婚し、家族を作る。
もう、ずっとずっと前から決まっていた。分かっていた。理解していた。それを、やっと今、認めた。
『……だからか、』
『オブ?』
だから、ここまで食い下がるインに対して後ろめたくて仕方がなかったのか。
あぁ、俺はもう、現実へ抗う事を“諦め”ようとしている。
俺はやっと“大人”になろうとしているんだ。
こうして、現実に立ち向かおうとするインは“子供”だ。だから見ていると腹が立つ。正しい筈の自分に対して後ろめたくなる。
『オブ。何だっていい!俺の事嫌いとか、あっち行けとかって思ってるかもしれない事も、全部話せ!俺は全部聞く!全部受け止める!だけど、絶対に俺は、オブのこの手だけは―-』
『離せよ』
≪王子様、いっしょにお喋りしよう。手を離さないでね。そうでないと、≫
『……おぶ』
俺の声からその瞬間、色が消えた。感情が消えた。無になった。
そんな俺の変化に、インも気付いてしまったのだろう。それまで強く光の灯っていた目が、陰りを見せた。必死に掴んでくるインの手から、少しだけ力が無くなる。
もちろん、俺が握り返す事もない。
『おぶ、おぶ、それじゃあ、だめだ』
≪そうでないと、ぼくは何も見えないんだから≫
俺はもう子供の駄々に付き合っている暇はないのだ。いらぬ感情に振り回されている場合じゃない。
そう、思わなければ、俺はこの後の人生の全てに耐えられそうにない。
『…………離せよ、イン。俺は忙しい。お前みたいに暇じゃない』
——-出ていけ。子供の駄々に付き合っている暇はない。
あの遠い過去の日。父が俺に言った言葉が耳をつく。今なら、分かるのだ。あの日の父の気持ちの一端が。
心を殺さねば、この世界で生きてなどいけない。大切なモノを手放さなければ生きられない世界で、心はもう不要だ。邪魔だ。
『オブ、俺は、諦めない』
『……』
『俺はまだオブの本当の気持ちを聞けていない』
『……』
俺はもうインに言うべき事は何もないと、力の無くなったインの手から自身の手を振り解いた。離れた手に、インは俺の手を追おうと、更に手を伸ばす。
『触るな』
『っ!』
『そろそろ、インは身の程を弁えないといけないよ』
『オブ、その手には乗らないって言ってるっ、だろう?』
『俺は貴族で、お前は農民。立場も背負っているものも違う。そろそろ子供の時間は終わりだ』
俺はインの言葉を無視して、インに背を向けた。
インは震える声で『オブは、俺から離れたらダメだよ』と、何度も何度も言い続けている。
あぁ、そんな事、分かっている。分かっているけど、どうしようもない。真っ直ぐな気持ちだけで生きていける程、この世界は甘くないのだから。
『オブ!まだ話は終わってない!約束!俺達はまだまだ話す事がたくさんある!オブの気持ちを、俺はっ』
『…………』
俺は最後までインの言葉を聞きたくなくて、次の瞬間には地面を蹴っていた。
森を駆ける、駆ける、駆ける。
視界の脇の風景が目まぐるしく変わっていく。
俺はどうして、こんなにも軽やかに走れるようになったのだろう。どうして走っても息一つ切れない程の体力を得たのだろう。どうして医者の勉強まで始めたのだろう。
あぁ、どうして、強くなりたいなんて思ったんだっけ。
『いん、いん、いん、い、ん』
俺はその日、その理由の全てを森の中に置き去りにした。