188:忘れられない女

 

      〇

 

「アボード、もう酒が無くなってるぞ?おかわりいるか?」

 俺は目の前でキャッキャッと楽し気にお喋りを楽しむアバブとニアを横目に、ぼんやりとカウンターで霜氷だけになったグラスを片手で持つアボードに声を掛けた。
 すると、本当に意識をここから飛ばしていたのか、アボードは一瞬目を瞬かせて俺を見てくる。

「あ、酒?」
「ほら、グラス貸せ」

 アボードは一瞬、俺が何を言っているのか分からなかったのか、自分の持っているグラスと、俺の差し出した手を交互に見つめていた。
 あぁ、まったくアボードのヤツ。悩みがあるなら言えと昔から言ってきたのに。

「あ、あぁ。そう、だな」
「ほい。何が飲みたい?」
「別に……なんでもいい」
「お前は昔から和酒が好きだったよな。外は寒かっただろ?燗酒にしてやろう」
「……ああ」

 ともかく、本人が言い出すまで俺は待つしかない。無理に聞き出そうとしても、このアボードが口を割らない事など、俺は昔からよく分かっている。
 こういう時は十分にアボードの機嫌を取って、鬱陶しくない程度に甘やかしてやるしかない。
 度が過ぎると、逆に離れていく。難しい奴なのだ。

「アボード、和酒ならさ。あの酸味の効いた乾物も合うだろ。いるか?」
「ああ」

 既に、返事の律動が少し“いつも”通りに戻ってきつつある。
 先程までのぼんやりした目も、少しだけ自我を芽生えさせてきているので、これは良い傾向だ。

 この調子ならば、そのうち勝手に「なぁ、」と言って話し始めるだろう。これは俺とアボードが“兄弟”をやってきた23年分の人生に基づく経験則であるため、まぁ、そこそこ確かな筈だ。

「えーっと。和酒は、と」

 そう、俺がアボードに出す為の酒を棚から取り出していると、それまで楽し気にアバブと話していたバイの声がピタリと聞こえなくなった。
 なにせこの中で一番楽しそうに声を上げて話していた人間がバイだ。急に会話を止めたとあれば、カウンターに背を向けているこの状態でも気付かない訳がなかった。

「アウト!俺も何かあったかい飲み物くれ!」
「あ?バイも?ちょっと待て。アボードの分の和酒が終わったら、お前にはパウの乳を暖めてやるから」
「~~~~もうっ!」
「っなんだよ?」

 急に不機嫌になり始めたバイに、俺は和酒の瓶を両手に抱えて眉を顰めた。すると、バイはトウ越しに座るアボードへと顔を向けると、口を突き出して「兄貴!」と勢いよく声を上げた。

「兄貴はいいな!アウトの本当の弟で!」
「あぁ?」
「いいよな!弟扱いしてもらえて!甘やかしてもらって!」
「ったく、意味わかんねー事ばっか言いやがって」

 どうやら、俺がアボードを弟扱いして甘やかすのを見て、自分も!と思ったらしい。
 このバイという男。先程は俺の子を産みたいとか、抱きたいとか中々に衝撃的な発言を次々と放ってきておいて、次は“弟”を羨ましがるとは。
 一体バイは俺の”何に”なりたがっているのだろう。

「ったく、バイ。お前さ、さっきまで、このクソガキの子供を産みたいとか、抱きたいとか、そら恐ろしい事ばっか言ったかと思えば、今度は“弟”か。お前は一体このクソガキの“何”になりたいんだよ?」
「……おぉ」
 さすが俺の弟だ!俺の思っていた事をそのまま口に出してくれるなんて!

 俺はアボードの言葉に、一瞬自分が口にしたのかと思う程妙な感覚に陥った。こういうのを、“共振する”とでも言うのだろう。アボードとは、たまに頭の中が繋がっているのかと思う程、思考が重なる事がある。
 兄弟だからだろうか。
 
「もうう!俺はアウトにとって“忘れられない男”になりたいの!つまり全部になりたいんだ!」
「……こわっ!そりゃ一体どんな願望だ?このクソガキの忘れられない男に?バイ、お前も物好きな奴だな!」
「物好きじゃない!兄貴にだって居るだろ!?忘れられない女ってヤツが!その女は目の前に居なくても、兄貴の心にずっと居座り続けてるだろ!!そんな風に、俺はアウトの中に永遠に居座り続けたいんだーー!本当の弟には負けない!」

 バイの、その圧倒的に重い、想い言葉に、俺は和酒の瓶から、燗酒専用の分厚い陶器に酒を注ぎつつ、苦笑するしかなかった。

「いや。バイさ。わざわざ心とか見えない場所に居座らなくても、普通にこれからも俺の目の前に居座ればいいじゃないか。別に俺、どっか遠くに行くわけじゃないし」
「……っ!アウト」
「あぁ、アウト先輩がまた無自覚に凄い事を言い始めましたねぇ。これは私も平凡攻めのジャンルにも切り込んでいく必要ありっすね」
「アウト、それは俺に対する求婚って事でいいのか?」
「どうしてそうなった!?」

 いやはや、バイのヤツ。
 きっと酒の匂いと場の雰囲気だけで、酔っぱらった気になっているのだろう。往々にして、酒場には飲まなくても“場”で酔う奴は必ず現れるのだ。
 そして、アバブはアバブで口元に薄い笑みを浮かべ、自身の鞄から何やら小さな手帳を取り出し始めていた。
 アバブも俺のように何かメモを取りたい事でもあったのだろうか。

「アウト……」
「はは、トウ。落ち着けって」

いや、しかし、だ。これ以上滅多な事を言わないように、後からバイには釘を刺しておくしかない。なにせ、拳を握りしめながら叫ぶバイの隣では、俺を物凄い形相で睨みつけてくるトウの姿があるのだから。

「は、はは」

 これは“後で”で間に合うのか。一刻も早く伝えておくべき案件ではないだろうか。
そう思い、俺がバイの方を見てみるが、そこには未だに俺に向かって「求婚か?求婚か?」とキラキラの星を宿した目を向けてくるバイの姿。
 これは、今、俺が何を言っても聞きはしないだろう。

 俺はバイへと言葉を賭す事を諦めると、鍋に水を張り、灼石の上へと乗せた。
和酒をそのまま灼石にかけると、大事なアルコールが飛んでしまう為、こうして湯に浸して間接的に暖めるのだ。

 さて、燗酒と言っても飲み頃の温度は様々。どの程度の燗酒にしてやるべきだろうか。
ひとまず、本人にその辺りの希望がないかと俺がアボードへと顔を向けると、そこには余り見ないアボードの穏やかな表情があった。

「……忘れられない女ねぇ」
「アボード?」
「そうだった!忘れられない女!兄貴にもいるだろ!?忘れられない女の一人や二人や三人くらい!」

 いや、3人はいくら何でも多いだろ。
 そこまで来ると“忘れられない女”の希少価値が、一気に無くなってしまうような気がするのは気のせいだろうか。

「バイ!聞いてくれ。俺にとっての忘れられない女は、もちろんニアだ。ニア只一人だ!そして、今はお前ただ一人だ!バイ!」
「はぁ!?何言ってんだ!トウ!そういう分かり切った事はイチイチ言わなくていいんだよ!?つーか、俺以外にそんな女居たら、お前ほんと俺が殺すからな!?」
「いいだろう!俺は何も後ろめたい事なんか一つもないからな!」

 そう、最初のイメージとは大分かけ離れた姿に成り果てたトウの姿に、俺は口の中に砂でも入って来たような気分になってしまった。
 あぁ、そろそろ湯が沸騰手前になってきた。
そろそろ、和酒を入れて温め始めなければ。

「……はあ」

 あんなに格好良くて優しくて、騎士の鑑だった俺の中の英雄的トウは、もうお亡くなりになってしまったようだ。
 サヨウナラ俺の憧れの騎士よ。そして、こんにちは。好きな人に一途過ぎて周りの見えない傍迷惑な騎士よ。

「差支えなければ聞きたいんですが、アボードさんの忘れられない女ってどんな方ですか?」

 そろそろ、ちょうど良い暖かさの燗酒が出来上がってきた時。それまで、黙ってトウとバイのやり取りを見て、必死に何かメモを取っていたアバブが、アボードへと声をかけた。

「あ?」
「差支えなければ、です。私、男同士も好きなんですが、アボードさんのような何様俺様アボード様のような男性が、一人の女性に固執するようなお話は、別腹的に好きなんです。私、雑食なので」
「…………」

 またしてもアバブの難解な言葉に、俺同様、語彙も無ければ、“ぎょうかん”を読めないアボードが戸惑いの表情を見せる。
 しかし、そんなアバブの問いに、それまでトウと惚気なのか、脅しなのか、喧嘩なのか分からない激しい会話を繰り広げていたバイまでもが、急に目を輝かせて会話に参戦し始めて来た。