193:兄からの助言

 

———おら!俺の分のパウの乳飲め!早く!父さんに見つかるだろうが!

お前はパウの乳が本当に苦手で、いつも俺に飲ませていたな。それなのに、自分ばっかりスクスク育ちやがって。

 

———その毛むくじゃらを俺に近寄らせるな!クソ!殺すぞお前!

あんなに可愛い猫を、どうしてそんなに怖がるのか分からない。フワフワでとても可愛いじゃないか!

 

———父さんが怒った!おい!どうすんだよ!オイ!どうすんだ!

父さん、怒ると怖かったもんな。お前はいっつも父さんが怒ると泣きそうな顔をしていた。

 

———なぁっ、本当にもう父さんは助からないのか?崩死ってなんだよ?

大事な人の死。これは、きっと皆、怖いよな。俺も、怖かった。

 

 

そして。

 

———っはぁ。っはぁ、下ろして、頼む、下ろしてくれ。怖い。怖い、こわい。

お前は、高い場所に行くと、人が変わったように恐怖に震えていたな。木登りも、時計台も、いつもお前は下から見ているばかりだった。

 

 

「……なぁ、アボード。お前は高い所が怖いんじゃないだろ?」

「…………」

「お前は、落ちるのが……いや、落ちて死ぬのが怖いんだ。俺と違って、お前にとっての高い場所は、遠くを臨む希望の場所じゃない。死を強要され、逃げ場なく、向かわされた場所が……たまたま高い所、空の上だった」

「……あの時は、皆、そうやって生きてた」

「今、そうやって生きる必要はない」

 

 俺はアボードの目を見てハッキリ言ってやる。

 そうだ、もうお前を死に縛り付けるモノはこの世にはない。思う存分、逃げてもいいんだ。

 

 そんな気持ちを込めた俺の目に、珍しくたじろいだような表情を浮かべるアボード。俺はそんなアボードの手に、そっと自分の手を添えた。

 

 あぁ、あんなに小さかったのに、いつの間にこんな大きくなったんだろうな。

 

「お前の言う“兄貴”や“男の矜持”や“騎士”というモノが、お前の生き方を不幸に縛り付けるのなら、俺はそれを躊躇いなく捨てろと言いたい。そんなものがお前を幸せにしてくれるとは、兄ちゃんは到底思えないからだ」

「…………そんな、事。できねぇ」

「そうだな。お前はそんな事出来ない。捨てれるもんならとっくに捨ててる。なにせ、お前は皆の“兄貴”である事を、生きがいにすら感じこそすれ、重荷にしている訳じゃない。それも込みで、お前は幸せを感じているんだからな」

 

 俺は触れていたアボードの手からソッと手を離すと、勢いよくその両手を真横に広げた。

 

「ほら、ここにはお前と俺しか居ない。こっそりだ。さぁ、来い!」

「んだよ」

「分かってんだろ?ほら、兄ちゃんの所に来い!」

「誰が行くか。気色わりぃ」

「ハイハイ、そう言うだろうと思ったよ。それなら俺から行ってやろう!」

 

 俺はフイと此方から顔を逸らしてしまったアボードに向かって、ベッドから飛び降りると、靴を履く事もなく、椅子に座る弟の体を抱き締めてやった。座っているせいで、いつもは上にある頭が、俺の真下にある。

 

「…………はなせよ」

「まぁまぁ。誰も見てない。こっそり、兄ちゃんに甘やかされてくれ」

 

 離せとは言いつつ、アボードは一切俺に抵抗しない。拒絶しない。あるのは、少しだけ赤くなった耳だけだ。

 それこそが、アボードの答え。

 

「お前は自分が死ぬのと、俺が崩れ死ぬの、どっちが怖い?」

「お前が、崩れ死ぬの」

「よしよし、お前は本当に良い子だなぁ!自分より兄ちゃんが死ぬのが怖いなんて!しかも即答って!自分より他人の死を恐れられるからこそ、お前は誰よりも周りから慕われる、父さんみたいな騎士になれたんだろうな」

「……お前のが、父さんに似てる」

「へぇ。そりゃ初耳だ。まったくそうは思わないけど、嬉しいからその言葉は、めーどの土産に貰っておくよ」

「っは、そんな下らないモンにされるんだったら、言うんじゃなかったぜ」

 

 いくらあんな屈強な男達から“兄貴”と慕われていようと、前世が軍人で俺よりも人生経験が豊富だろうと、どんな相手にも立ち向かって必ず勝って戻ってこようと。

 

 俺の前ではいつまでたっても可愛い可愛い弟である事には変わりない。

 

 特にこの世界から”アウト”を望まれてこなかった俺が、“アウト”である間にあと何回この弟を抱き締めてあげられるか考えると、少し惜しい気持ちになっていたけれど、そんなの考えるのは勿体ない事だと、思った。

 あぁ、思ったさ!

 

「なぁ、アボード。もし、さ。また俺が鳥みたいに飛べるんだって言って、バカな事し始めたらさ」

「あ?」

「あの時みたいに、とんで来てくれるか?」

 

 俺の問いに、アボードは一瞬、何かを思案するように無言になる。

けれど、いつの間にだろう。俺の背に回されていた、アボードの手が俺を優しく撫でながら、けれど、口では吐き捨てるように言った。

 

「仕方ねぇから、行ってやるよ」

「おう、頼むな!」

 

———-よしよし。良い子良い子。お前なら出来る。何でも出来る。悲しくなったら兄ちゃんの所に来い。兄ちゃんはいつでもお前の味方だよ。

 

 俺はそう、ヴァイスをまねて歌い上げるように小さく口にした。そうでもしないと、なんだか俺も照れくさくて、そんな本心言えそうになかったからだ。

 俺の言葉に、腕の中でピクリと肩を揺らす弟を抱き締めながら、俺はチラと入口で、これまた泣きそうに表情を歪めて立つ、美しい男に微笑んだ。

 そして、口だけ大きく開けてウィズに言葉を送る。

 

 

「(あ、と、で、は、な、そ、う)」

 

 

———-ウィズ、あぁ、ウィズ。俺は、お前のそんな顔じゃなく、幸せそうな、楽しそうな顔が見たい。俺が、絶対にお前を幸せへと連れて行くからな。

 

 

 もうすぐ、もうすぐだ。

 俺が、彼らの“名前”を取り戻してみせる、絶対に。