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『オブ、ちょっといいかしら』
俺の屋敷に、一人の女の子、いや、女性が通された。
彼女は不機嫌そうな顔を隠しもしないで、ふてぶてしく屋敷の入口にある来客用の椅子に腰かけていた。
『何かな、ニア。俺は色々と忙しい。わざわざ屋敷まで尋ねてくるなんて、それ相応の用じゃなければ、許される事じゃないよ』
『……どう許されないのか分からないけど、その言葉、聞かなかった事にしてあげる』
ニアは俺の態度に、何一つ臆する事なく椅子から立ち上がると、近寄って来た俺の前に堂々と立ちはだかった。
俺の言葉の何一つさえ、このニアには何の動揺も、変化も与えた様子は見られない。
———–オブ。わたし、オブのきらいを戻してあげてもいいよ。
どうやら今回も、俺はニアに許しを乞う立場らしい。
『本当にニア、君も変わらないな』
俺は過去の、あの懐かしくも輝かしい記憶の一点を思い出しながら、思わず鼻で笑ってしまった。
昔からそうだ。ニアという少女は、自身の中に確固たるものを持っている。持ち過ぎている。そういう所が、フロムを惹きつけるのだろう。
ニアはいつもその目に湛えている。
———私をその辺の“可愛いだけの女”と一緒にしないで、と。
そんなニアが、俺に牙を向けた。何故か。そんなの理由は明白だ。
『インが何か言った?』
『……呆れた。オブ、あなた本気でそんな事を言ってるんだとしたら、私は貴方を許さないわ』
『何を怒ってるのか、俺にはサッパリわからないよ』
『あくまでそう言う態度な訳ね?じゃあ、教えてあげる。今、貴方、アゲインスト達と同じように、お兄ちゃんを誰かを頼って甘えるばかりの、何もできない奴って言い方をしたのよ。うちのお兄ちゃんをバカにするのも大概にして』
ニアの言葉に、俺は思わず眉を顰めてしまった。
俺があのアゲインスト達と同じ?いや、待ってくれ。それは聞き捨てならない。
そう、思った俺の思考を読んだのだろう。ニアは不機嫌そうな表情を抑える事なく、苛立たし気に、一歩だけ俺の前へと詰め寄って来た。
『ねぇ、オブ。お兄ちゃんが貴方に何かされたからって、妹の私やフロムに“オブからこんな酷い事を言われたんだー”なんて泣きつくと思う?本当にそう思ってるのだとしたら、あなたのお兄ちゃんと過ごして来た5年間は、ほんと、どこに目ぇ付けて過ごしてたのって感じよ』
『……言ってくれる』
ニアに言われて、確かにそうだと俺は苦笑するしかなかった。確かに俺は先程、インがニアに何か言ったのだと思った。
あの森での事を。
妹のニアに相談、もしくは明らかに態度に出ていたインから、ニアが無理やり聞き出したのだ、と。
そう思った。
『言っておくけど、お兄ちゃんは本当にいつも通りよ。いつもと何も変わらない。何かをおくびにも出さない。私が何かあると思ったのは、ねぇ、オブ。あなたよ。あなたが、おかし過ぎるから』
『俺が?』
ニアは『気付いてないの?』と呆れた様子で俺の首元に自身の人差し指を突きさして来た。
あぁ、なんて無礼な子なんだろう。
遠くから此方を見ていた執事の一人が、明らかに眉を顰めるのが見えた。そんな執事に対し、俺は下ろした手を動かし、彼に対し静止をかける。
——–いいんだ、と。
そう、身分をかさに着て彼女の行動を止めさせるように言うのは簡単だ。けれど、そんな事をしても意味がない事など、俺はよく分かっていた。
身分を持ち出せるような関係を、俺は彼女達と、そして、インとも築いてきていない。
『貴方、普段なら1日に2度はお兄ちゃんを尋ねてきていたわ。それこそ、忙しい合間すら時間を作って必死にね。そりゃあもう、会いたくて会いたくてたまらないって顔で』
『…………』
『それが、ここ数日はどう?少しも顔を見せない。それなのに、お兄ちゃんは何て事ない顔をしてる。それこそが逆におかしいのよ。そして、ここに来て貴方を見て思ったわ』
ニアが一体何を言うつもりなのか。
俺は年下の、自分よりも体も小さな女性……いや“おんなのこ”相手に、思わず目を逸らした。けれど、そんな俺に、ニアは逃がさないとでも言うように、俺の首元に押し付けた人差し指に、更なる力を入れた。
『オブ、お兄ちゃんから逃げたわね』
『っ』
余りにも見透かされたような言葉に、俺は逸らしていた目をニアに向けた。その瞬間、ニアは捕らえたとばかりに俺の視線を絡めとる。
その目は、もう逸らさせやしないとハッキリと言っていた。
『私たちもバカじゃないから分かるわよ。オブ、貴方がいつかはここから去らなきゃいけないって事くらい。ましてや、貴方はお貴族様よね?どんなに私たちと一緒に過ごしたって、身分の差は変わらない。それにもうすぐ、お兄ちゃんも貴方達も成人の儀を迎える』
『…………』
『オブ、もうここから居なくなるんでしょう?首都の家に帰っちゃうのよね?そして……貴族の事は、私はよく分からないけれど』
——-けっこん、するんでしょ?
ニアの口から出たその言葉に、俺は幼い頃、幾度となく彼女とフロムが口にしていた台詞を思い出していた。
———-俺は絶対にニアと結婚するぞ!高い指輪を買って、永遠を誓うんだ!
———-私はフロムと結婚するのよ!そして、フロムと私の赤ちゃんを産むの!
あぁ、いいよな。身分の差もなく、男女で、自由に想い合える同士で手を取り合う事が出来るなんて。なんて贅沢なんだろう。
『そう、なるだろうね』
『やっぱり、そうなのね』
俺の返しに、ニアは俺の首元に当てていた人差し指を引くと、ゆっくりとその手を下ろした。下ろして、何かを想うように天井を仰ぎ見る。
『なに?それで俺を責めに来たの?』
『……ねぇ、今度は私をバカにする気?大概にしてよ、オブ。あなたどれだけ愚かな男に成り下がるの。もうこれ以上、私を幻滅させないで』
『……じゃあ、何しに来たんだ』
俺はニアからの余りの言葉と、どうしようもなさに対する苛立ちに右手で頭を抱えた。一体、俺に何をどうしろと言うんだ。
『私はね、オブ。好きだとか、一緒に居たいという気持ちだけで生きていける程、人生は甘くないって知ってる。それを選ぶ事で、茨の道に向かわなければならないと分かっていて“選べる”人間は、そう多くない。選ばなかったからと言って、他人が知った風な口をきいて、責められる訳ないじゃない?』
『…………』
それまで厳しかったニアの目が、急に俺を優しい目で見てきた。ニアは分かっている。俺の立場も、そしてインの事も。これだから、聡すぎるというのは考えものだ。
ビロウにニアは無理だ。アイツ程度の人間に、乗りこなせっこない。彼女は高貴で頭の良い、けれど“暴れ馬”だ。
しかし、次の瞬間。一瞬だけ優しさに染められたニアの目が、一気に軽蔑の色に染められた。その落差に、俺は一気に心臓をナイフで刺されたような心持ちになる。